なにこのかっこよさ。表紙、立っているだけなんだけどかっこいいという。
でもやはり横山先生は叩きのめされる男が好きなんだよ。
ネタバレしますのでご注意を。
1970年週刊プレイボーイ
東大寺邦男。めちゃくちゃカッコイイ男なんだけど今このカッコよさはコメディとなってしまうんだよなあ。70年当時はその感覚があったのかどうか。
しかしそういう現代人の目で見てものめり込んで読んでしまう面白さがあった。
恩赦により二年間で出所できることになった主人公・東大寺邦男。
出所していきなり「しゃばか」に吹き出す。せめて「シャバか」にしてほしかった。
大体シャバってなんなのだ。
(東方浄瑠璃世界が気になる)
さらに
娑婆は、「サハー」という原語の発音を漢字の音を借りて置き換えた音写語である。 「サハー」には、その意味を表す「忍土(にんど) 」という意訳語もある。 忍土とは、「苦しみを耐え忍ぶ場所」という意味である。 そのあまりに露骨で身も蓋もない意味が人々に嫌われたのであろうか、こちらの方はあまり使われてこなかった。(大谷大学より引用)
ふええ、勉強になった。冒頭でこんなに躓いていてはいかん。
うんいや横山氏はちゃんと最初からこの男はカッコつけているだけでカッコ悪いんだということを描いてるんだと思う。本作で一番ほんとうにカッコいいのは東大寺に惚れ込んでずっとついていく女・美紀なんだよね。
男性向け横山作品の多くで女性は活躍しないままなのだが本作で忠義心持ち何とかして愛する人を救おうとするのは美紀だけなのだ。
いっぽう主人公の東大寺は腕利きでもあり自分こそが賢いというプライドを持っている。美紀を都合よく利用しているつもりだが実は助けられているということに気づいていない馬鹿な男なのだ、と横山氏は描いている。
レビューに「主人公がかっこいいのにすぐやられるのがカッコ悪い」というのをみかけたのだけどいや横山光輝は他の作品でもカッコいい美形男性(男子)が痛めつけられてるのばかり描いてる。美形男性(男子)をいたぶるのが好きなのに決まってるではないか。
ちなみに美女のほうは少しいたぶったら止めがはいったよ。ううん、興味がないんだね。
なので本作かなりのコマで東大寺が苦悶の表情を浮かべている。
描きたくて描いてるのに決まってるのだよ。
このへん、昨日書いた『偽りの偶像』と同じ動機なのである。
って傷を負った野獣が一番かっこいいんじゃないか。
後半、東大寺が大阪に移動しての物語になっていく。
組長の関西弁がめちゃくちゃ良い、のは当然だった。横山先生神戸の方だった。
考えたらクリエイターというのはほぼ生まれつきの言葉ではないいわば後で学んだ外来語(?)で作品を作らねばならないなと改めて思う。
日本で言えば関東というか東京地区でなければどうしてもそうなるんだよな。
手塚治虫氏もそうだけど横山氏ももっと関西弁作品があってもよかったのでは、と今更。
とにかく本作で関西弁はとても良い仕事をしてる。
さて東大寺は目的の五億円の宝石に近づいていく。
美紀はひたすら忠実に東大寺を守っていくのがいたいけである。
東大寺が言う「ダイヤを取り戻したら一緒に外国で暮らさねえか」の一言にすがる姿がいじらしいではないか。
ラスト、小島での銃撃戦から美紀が助けに向かうところ、読み応えある。
しかしここ
船頭さんがもう殺されているから「頼むぜ岸までもってくれ!」じゃないかと思うんだけどなあ。
美紀が助けにきて(しかも自己判断で)あと少しというところで東大寺は撃たれダイヤと共に海底に沈んでいく。
ダイヤを求めて飛び込む炎組を見ながら美紀はひとり戻っていく。
哀れな東大寺を思いながら美紀は砂浜を歩き去る。
とても良くできたピカレスクロマンだった。頭の中で自然に映画化されてしまった。
あんまりよくできていて壊れた部分がないのが物足りないほど。
確かにそれを思うと『闇の顔』は変な話なんだけど変なところが心に残るのかもしれない。
『三国志』世界では忠義の心、男同士のつながりを大切にする心がなければ英雄としての価値がない。
しかしこうしたピカレスクロマンとしてなら呂布は主人公たりうる。
しかしそれでも東大寺より美紀の忠義心に感動してしまうのは横山先生がやはり忠義の人が好きだからなのではとも思う。そういう意味では美紀の方が「男」だったんだよなあ。
現在の価値観ではそういう言い方もダメなんだけど。
つまり人間として東大寺はつまらない男だったし、美紀はより大きい存在だったってこと、なんだ。