ガエル記

散策

『少年ロケット部隊』横山光輝 その1

またまた未単行本化だったという幻の少年マンガと銘打っている本作。いったいなぜ?

横山先生未単行本化多すぎる。

 

まず表紙。いつもながら少年がかっこいい。少年と重なるような飛行機(ロケットというのか?)というデザインも良い。

でもなぜこんなにウエストを細く締め上げているんだろう。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

まずは前置き。

ここで作品について批評を書くわけだけどそもそも横山光輝氏が単行本化をしなかったということは作者が本作を残したくなかったというのですでに答えは出ている。

それを承知の上であーだこーだと感想を書いていると考えてください。横山氏が見せたくなかったものを勝手に覗き見て勝手に書いている文章にすぎません。

 

 

少年ロケット学校の卒業生5人がロケット基地にやってくる、というところから始まる。

主人公は草間完治(名簿に父・草間大・・・となっている。草間大作?好きな名前なのかな)

憧れの目でロケット(なぜロケット?もしかしてこの名のせいで未単行本だったのか???)を見上げる草間たち。上級生たちが彼らをからかうがそこへ登場するのが黒い稲妻の異名を持つ黒部一尉だ。

黒部は早速新入生たちを連れて四万メートルまで上昇する。

(えーと。こういうのまったく詳しくないんですが現在最高戦闘機でも15000~20000高度までみたいなんで40000・・・だからロケットなのか。形は飛行機だけども)

マンガだから‥‥マンガだから・・・・。

星を背景に背面飛行演習。

そこに怪しい光が現れた。

 

今回まったく先を読んでいないのだけどどうやらこれが物語の(少なくとも最初の)ミステリーとなるのだろう。

そして草間は命令を無視して勝手に光が何かを突き止めようと近づく。突如機体が火を噴き草間機は落下するが草間は脱出して無事だった。

草間は叱られ2か月謹慎となるがいやこの損失そんなものじゃきかんでしょ。こっちの方が具合悪くなりそう。草間たぶんよくわかってない。

ここまでこんなカラーページが続いた。すごいな。

 

高度84000メートル・・・嘘だろ

うさらに高度一万メートルで速度テスト。マッハ6・5・・・嘘だろ

この新しいロケットは草間達新入生の専用機となる。

無論草間自身は2か月乗れないのだが。

というか・・・・確かにこれはあまりにも規律がなさすぎる。新入生が最優先ってなんだろう。

 

だが草間は新鋭ロケット機を探っていたスパイを見つけた手柄で謹慎を解かれる。

そして早速現れた謎の光の究明に飛ぶこととなる。

 

ちょうどその頃「長門」「春風」が坂崎岬沖三十カイリのところを進んでいた。

いろいろと不思議な世界線にいる。ここはどこなんだろう。

これは印象的な光景。

 

黒部一尉は怪光に近づき前の草間と同じ状態になり脱出。

うーん。この高度でパラシュート開くのはどうなんだろう。やっぱりこうしたもろもろの検証が問題だったと思える。

 

が、ここで謎の怪光が「円盤」だったと解明する。草間もまた黒部一尉を助けようとして墜落(二機目)

ふたりともパラシュートで水面に降下した。

黒部一尉突然の告白。

ふたりは円盤から排出された奇妙な触手を持つ物体にからめとられて円盤に閉じ込められてしまう。

 

円盤がどこかに着陸した様子となりどこからか「降りなさい」という声が。

ふたりが降りるとあやしい男たちが銃を向けていた。

 

えー正直言って怪しいというより普通の人間だった。どういうことだ。

ふたりは理解できないまま別の建造物へと移動させられ再び閉じ込められる。

 

そこにはアメリカ空軍のヒューズ大佐と名乗る人物がいた。

草間は機械に連れ出され奇妙な機械から尋問を受ける。

続いて黒部も運び出されるが自らヒューズ大佐に殴られ気絶することで尋問を回避した。(これもなんだか無理なような)

 

三人の前にあの「怪しい男たち」が再登場するが三人は隙をつき逃げ出すことに成功する。

多数のロボットや円盤を目撃。

そこへ飛行機が近づいてきたが円盤によって撃ち落とされてしまう。三人は墜落した飛行機から無線機と食糧を運び出す。

ヒューズ大佐はSOSを送った。

が、その時不気味な機械が三人に近づいてきた。

 

うむむむ。これはかなりの不思議マンガだw

まだかっきり1巻しか読んでいないのでこれ以上は何とも言えない。

もちろんそれでもいろいろなところに魅力はあるんだけど。

いやこれが未単行本の醍醐味というものかもしれない。

 

『91衛星(サテライト)SOS!!』横山光輝

1980年月間少年チャレンジ掲載

 

昨日に引き続き横山光輝最期のオリジナル作品、と銘打って記事を書こうとしているのですが今年表を見たら1987年『仮面の忍者赤影(新)』というのがあったのでこの説はなくなったw

しかしまあ乗りかかった船なので「初出オリジナル作品最期」ということで書き進めましょうか。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

先日ひらさんからも解説のあった「宇宙SF」の一つになる。

SFはそれが映画にしろ小説にしろマンガにしろ物語だけでなく背景をどのくらい詳細に描き込むかにあるのは確かだ。

『宇宙船レッドシャーク』では自身が納得できなかったと言われるものが本作ではかなり充実していると思える。

まずは宇宙船

デザインの変化は著しい。

船内のデザインもまた。しかし服装は案外あっさり。

 

主人公・峰が乗る調査船は未知の惑星に遭遇する。さらに地球宇宙局によって組み立てられた90個の衛星の記録にはない「91個めの衛星」がそのそばに浮かんでいた。

船長は峰と共にその未知の惑星の調査に向かう。

この一巡の動向を緻密に描いていく横山演出は以前とまったく変わらない。

隊員が男性のみなのも変わらず。

 

船長と峰は砂に覆われた大地の先に建物の跡を見つけ降り立つがそこには地球人とは違う形の人骨が夥しく打ち捨てられていた。

 

ふたりは調査船へと戻る。暴動か戦争で大量虐殺があったのかもしれない、というのが船長の判断だった。

翌日は91目の人工衛星の調査を他の隊員がふたりかって出た。

マスクメロンを思わせる筋が走る衛星のデザインだ。影に隠れていた宇宙船にまずふたりは入り込む。そこにも地球人とは違う形の人骨が山と積まれていた。

船内のデザインが不気味なのもおもしろい。

 

が途中でふたりとの交信が途絶えてしまう。どうやら衛星の壁が電波を遮っているようだった。

二時間経過しても応答がなく船長は再び峰を連れて人工衛星へ向かう。衛星は自動的に開く入り口があった。

が、ふたりのすがたはない。

探し続けるふたりは倉庫らしき部屋にはいる。

と、目の前の孔口からドサッと音を立てて大きなカプセルのようなものがふたつ現れたのだ。

ナイフで切ってみると中から小さくパッケージされた食糧らしきものがぎっしりと詰まっている。

さらに進むと先ほど応答が途絶えたジョナサンとスミスの宇宙服が破壊され散らばっていた。

ううう。右下のコマ「ジョナサン」という名前を使ってしまう日本人がやりがちなミス「ジョナさん」ここは緊迫した場面なので笑わせられるとツライ。

 

恐怖に満ちた緊迫感の中で船長が進む。

と、突然床が動き出し船長ははずみで倒れてしまう。

物凄い速さで穴に向かっていくのに抗い船長は壁にしがみつくが壁から触手のようなものが伸び船長の身体を穴へ誘導した。

船長からの通信に峰は救助に向かう。

だが再び目の前に三つ目のカプセルが搬出された。

更に別の穴からは船長のヘルメットが。

峰の足元が動き出す。危険を察し峰は衛星の機械類を撃つ。

あちこちで爆破が起き始めた。

峰は脱出し残っていたアーネストと共に衛星を離れた。

 

峰は自分の推測を話す。

「食料危機に見舞われていたこの星の人々は死者の骨肉を加工して食糧に作り変えていた。だがそれでも間に合わず戦争がはじまり飢えと戦ですべてのものが死にたえたのだろう。だが衛星はいまだに働き続けていたんだ」

衛星の爆発を見て峰は91衛星が役目から解放された、と感じた。

 

この本作SFの欠点を突くことよりもやはり興味は何を題材にすることかにあると思う。

(つまりここまでの科学力があるのならば・・・というような)

すべての作品がそうであるけどSFは特に作者の願望や恐怖が具体的に表現されてしまう。

女性を求めている男性作家はそうした欲望をSFに結実させてしまうし女性作家の多くが女性性の悩みを作品の中に入れ込んでしまう、ル・グイン萩尾望都などが生殖にこだわる作品を多く描いていることから見ても。

 

第二次世界大戦を体験してしまった先人たちはどうしてもその恐怖から逃れることができない。

横山光輝氏がマンガ作品で一生「戦争」を描き続けていったのもその恐怖からくるものなのだろう。

それは手塚治虫火の鳥』であの冷酷キャラのロックが「戦争だけはしてはいけない」と叫んだことからも感じられる。

楳図かずお漂流教室』は恐怖SFだがその内容は「戦争で追い詰められた子供たち」そのものでしかない。

漂流教室』は戦争の恐ろしさを最も強烈に描いたマンガ作品だ。

学校の外は荒れ果てた土地であり子どもを飢えさせる恐ろしい大人たちが描かれる。その恐怖の核になるのはやはり「飢餓」である。

戦争の恐怖を描いた作品の多くが「飢餓」を訴える。

 

本作を読んだ者は映画『エイリアン』をデザイン的に思い起こしてしまいそうだが『エイリアン』の中で「飢餓の恐怖」は描かれてはいない。得体のしれない怪物に捕食されてしまう恐怖のほうだ。

 

アメリカ人にとって第二次世界大戦は「飢餓の恐怖」ではなかっただろう。むしろもっと以前の南北戦争などでは描かれても実体験として飢餓に苦しんだものの気持ちはわからない。

むろん私だってわからない。戦争を子供時代に体験した先人たちの苦しみの多くはこどもゆえに「食べ物がない」だったはずだ。

 

1980年、46歳になった横山光輝氏の恐怖はやはりまだ「戦争と飢餓」だったのだ。

また『漂流教室』に戻るがあれほど楳図かずお氏が恐怖した飢餓だが、先日『漂流教室』をもとにアニメ作品になった『Sonny Boy』では飢餓の恐怖は描かれなかった。これはその恐怖がわからない世代にとって重要なポイントではなかったからだと思う。その選択は正しかったと私は思っている。

あの作品での恐怖は「人とわかりあえないこと」にあった。

 

しかし横山光輝世代の恐怖はいつまでも「戦争と飢餓」なのだ。

横山氏最期のSF作品と言っていいだろう本作の題材がやはりそこにあったのかと思うと悲しくもあり戦争を恐怖する。

 

『俺はだれ?』横山光輝

『俺はだれ?』プレイコミック1980年四月号掲載

表紙が横山光輝としては珍しい女性裸体なのでアップして凍結されたりしたら困るので途中のコマを上げておきます。

私的には『刎頸の友』のほうが刺激的ですけど。

 

講談社漫画文庫「白髪鬼」に収録

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

前にも書いたけど横山先生年表を見ると1978年あたりから作品数がぐっと少なくなっていくのがわかる。現代感覚で言えばそれまでが驚異の世界なのだが。

年表で推し量るしかないのだけど本作を描いた1980年がいわゆる「オリジナルマンガ作品」は最期の年になり1982年以降(年表を見るかぎり)作品は歴史もの一辺倒になっている。私としてはこれら歴史マンガ化作品も(というか「が」というか)大好きだし横山氏の歴史ものは『三国志』もあり氏の本領ですらある。

特に『徳川家康』と『史記』の面白さは他の追随を許さない名作なのだ。

 

という前提はあるとして1980年オリジナル最期の作品の一つが本作『俺はだれ?』なのだ。

深読み大好き人間としては「最期の作品(のひとつ)が『俺はだれ?』という意味深さ」に震えてしまう。内容はそれ以上だ。

冒頭の「自分を見失った人間を選んでいたずらする」という台詞もひっかかる。

そして年老いた男が登場する。豪邸でひとりぼっちで食事をしている途中で胃が痛みだし薬を飲み食事は中断する。

「年はとりたくないのう」とつぶやきながら自邸内を歩き物音に部屋のドアを開けると妻が男とSEXしている場面に出くわしてしまう。

年老いた男の妻は20代と思しき若さで美しい。相手の男も若く筋骨たくましい。

主人公の老男は激しく怒りそのあまり胸を抑えて苦しむ。心臓もまた弱っているらしい。またも薬を飲んで痛みを静めるがふたりを罵って出ていく。

財産目当てで結婚したらしい妻は「ここで離婚されたら遺産が手に入らない」と嘆き相手の男は「その前にあの爺さんが死んでくれればいいがな」と嘯いた。

 

本作執筆時横山先生は(計算すると)46歳。普通に考えればとても自分を老人にたとえる年齢ではないが(時期は知らないけど)糖尿病を患い心臓の手術をされたという記述を見るとこの老いた主人公と合致してしまう。

若い頃はスポーツマンであったと語られている横山先生としては中年期以降の衰えは他の人より大きく感じられたのではないだろうか。

 

『俺はだれ?』物語設定としては『ファウスト』なのだろう。

年老いたファウスト博士は悪魔メフィストフェレスと契約して若者としてよみがえり若く美しいグレートヒェンと恋をする。幸せだと言った時にファウストの魂はメフィストフェレスのものになる、はずだったが先に死んでいたグレートヒェンの祈りで救済される、という物語は崇高で手塚治虫氏は重ねてこの物語をマンガ化している。

ところが横山氏はこの物語に懐疑的だったのではないか。

若く美しい女性が魂を救ってくれるという『ファウスト』とはまったく違う筋書きになっていく。

そもそもその若く美しい女性こそが主人公の老男・大原剛造を指して「遺産のために結婚してかしずいたんだよ」と口にして若い男と交わっているのだ。彼女だけでなく本作のファウストたる老男には女は与えられないのだ。

 

浮気した妻を憎悪し離婚手続きを弁護士に依頼しようとした老男・大原は途中で奇妙な男に出くわす。

それがこの記事の冒頭にあげた画像の帽子の男である。このビジュアルはなんなんだろう。イメージする狡猾なメフィストフェレスとは真逆のとぼけた容姿でまったく悪魔的な神秘性は感じない。しかし老男に対して持ちかける話はまさにメフィストフェレスと同じだ。「その若い体で再び青春が楽しめる。上手いものを食い女を抱き青春を謳歌できるよ」やはり『ファウスト』なのだがその方法がまったく違うのが横山流なのだ。

「その老いぼれた体を昔のように若返らせるということはできん。だが若い男と身体を入れ替えらせることはできる。ただ交換を承知する男がいればだがね」

ううむ。簡単に「若返らせることはできない」できるのは「承知の上で若い男と身体を交換する」という縛り。

横山マンガの設定はいつもこの「縛り」の上にありそこが物語を面白くする。

 

このすっとぼけメフィストは大原剛造のために「若い男」’(そんなに若くないような)を用意する。

そして二人を会わせモゴモゴと呪文らしきものを唱えて「ヒャアァァ」と手を広げると(このポーズ「ガイアー」ではないか)あっという間にふたりの魂が入れ替わった(この辺は簡単だ。ページが少ないからね)

大原魂は若い男の身体を手に入れ(誤解される)大喜びで去っていく。

 

一方の「若い男」魂の「大原」老体は豪邸に帰りステーキを持ってこさせるが弱い胃はそれを受け付けず苦しみすぐに横たわるはめになる。

そこに若い妻が現れ服を脱ぎ捨てると浮気相手の男も入ってきて目の前でむつみ合う。それを見た老男の心臓は耐え切れず死んでしまう。

妻とその間男は「これで遺産は手に入る」とほくそ笑む。

 

しかしその財産はすべて元の大原剛造によって他人名義になっていたのだ。

若男になった大原は口座から三千万円を引き出し悠々と歩き出すがあっという間に警察に手錠をかけられてしまった。

若男・立山鬼久男は大原になってしまう前に銀行強盗をして行員三名を殺害していたのである。(死刑確定ということだな)

 

あれれ、若く美しいグレートヒェンの救済は?

ないのが横山マンガなのである。

 

昨今も少年マンガでは「可愛い女の子がボクを救ってくれる」的な作品が溢れているのだけど横山マンガには「そんなものはない」

グレートヒェンはいないのだ。

 

かくして横山光輝は最期まで「女性によって救済される」ことを拒否してオリジナル作品を閉じていく。といってもこの作品が終わりではなく一応年表順の『91衛星(サテライト)SOS!!』も持っているので明日はそれについてもう一度書きたい。

 

自分で書いていての気づきなのだけど「横山光輝マンガは女性が出てこない。可愛い女の子が描けない」という論評がよくあるが魔法少女最高峰「サリーちゃん」やキュートな「お銀ちゃん」を描いた横山氏が可愛い女の子が描けないわけがない。

むしろ「女性によって救済されたい」という男たちの願望をあえて退けたのではないかと考えてしまった。

横山氏のファンは女性も多い。

「女によって救われたい」と願う男性作品が多すぎる状況にうんざりする女性たちとって横山マンガはむしろ心地よいのではないだろうか、と今更ながら思わされた。

 

『俺はだれ?』記事、書き始める前には「なんの感想を書いていいやら」と思っていたのだが書き始めたら止まらなくなってしまった。

『俺はだれ?』最初は奇妙でヘンテコな小作品だとつい思ってしまったのだけど読み込むととんでもない作品なのである。

『俺はだれ?』横山光輝横山光輝なのだと改めて思う。他の誰かではない。

『飛猿斬り』横山光輝 その2

ここだけ見たら幕末という感じはしない。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

繰り返しになるが1964年尊王攘夷をとなえる水戸藩士により天狗党という一党が結成された。

同志に加えるのに身分を問わずやくざ者・前科者まで仲間となったためにその数はあっという間に二千人近くにふくれあがる。

その結果、天狗党はわずか数か月の間に軍資金集めと称し放火・略奪・殺戮を繰り返す一大野盗と変わっていったのである。

 

ここで登場するのが源蔵という岡っ引きだ。源蔵は天狗党の動向をさぐって各藩に知らせる役目を担ってとある村を歩いていた。

天狗党の残党が襲いにくるという噂を聞いた村にはすでに人影はない。村民は村を空にして身を隠しているのだ。

ところがその村にふたりの男が農作業をして残っていた。

源蔵はふたりに早く逃げるように声をかけた。

しかしくるりと顔を背ける男に源蔵は不信を抱く。

その男の顔は人相書きの山田一郎に瓜二つだった。剣をとっては天下無双、飛猿の山田と異名をとったほどの男だ。

彼は天狗党の結成者の一人ながら軍資金一万数千両もの金と共に行方をくらましたのだった。

 

帰りかけた源蔵はふたりの方へ戻りしばらくやっかいにならせてくれと言い出した。

お上の御用に嫌とは言うめえ、と源蔵はたたみかける。

 

天狗党のお尋ね者山田一郎と知りながらその家に上がり込む源蔵。

従者の男から芋粥をすすめられ食べるとその味に「うっ」となる。こういう場面をいれるのが巧いなと思う。

源蔵は天狗党をどう思うかと問いながら自分で彼らの非道を並べ批判した。「世直しと言いながら金品を奪い人を殺し女を弄び家に火を放つ。どの盗賊よりひでえ。しかしやつらよりもっと悪い奴がいる。南部浪人・山田一郎」

しかし目の前の男はその言葉を聞いても表情一つ変えなかった。

源蔵が「その山田一郎を捕まえたいのだ」と話しても「うまかった」と椀を置いた。

(このセリフも良い)

 

源蔵は横になるが夜中目が覚め隣室の灯に気づいて覗き込むと山田一郎とその従者はなにか相談している様子だ。

 

(余談ながらここ、BL描きさんにお勧めしたいシチュである)

 

翌朝、それまで寡黙だった山田一郎は源蔵に語りかけ始める。

なにこの二枚目(いろんな意味で)

山田一郎は「その山田一郎はほんとうに国を憂い心配している男だと聞いた」と話し始める。

「彼は本当に国のために働く男にその金を使ってもらいたいと軍資金を隠したと聞く。人の噂はどこかで間違って伝わっていくものよ」

そこへ従者が幾本もの匕首を持って入ってくる。

で最初の画像となる。

どうやら山田一郎はそれらの匕首を使ってひとりで四・五十人の天狗党残党と戦うつもりらしい。

ここでまたも源蔵は引っ掛けようとその名を口にする「それだけの相手にひとりで戦えるのは日本でも数多くはいねえ。たとえば飛猿の一郎の異名をとる山田一郎とか」

この場面の緊張感。山田の背後に影を黒々と描くことで一層高まる。

 

「いくぞ」「へい」

山田と従者は家を出る。

と山田は笑みを浮かべながら「天狗党があらわれるとすればどのあたりだ」と問う。

源蔵は毒気を抜かれたような面持ちで「あのあたりでござんしょうね」と答えた。

この話し方ですでに源蔵が山田一郎に一種の好意を持ってしまったことが伝わる。

それまで天狗党山田一郎に憎悪すら抱いていたはずの源蔵が本人からの短い弁明に心が動いてしまったのだ。

源蔵はその動揺を抱えながら山田主従に続いた。

 


天狗党が現れるだろうと予測した林にさしかかり山田一郎は従者が運んできた匕首を鞘から抜き出しこともあろうにその抜き身を次々と木々に投げて突き刺していく。

果たして源蔵の言葉通り天狗党の残党が林の向こうからやってきた。むろん目的はこの村を荒らして目ぼしいものを奪おうというのであろう。

賊は立ちはだかる山田に「おれたちは天狗党だ。たたっ斬るぞ」とすごむ。

山田一郎は「天狗党を語る盗賊わしが天にかわって天誅を加える」と刀を抜いた。

匕首を手に次々と賊を討ちとっていく。刀身が折れると飛び上がり先に刺していた匕首を抜いて再び賊に打ちかかった。

賊を切り捨てながら山田一郎は泣いていた。

 

源蔵は呆気にとられ斬り捨てられた屍を見た。

山田一郎は打ちひしがれたかのように座り込んでいた。

「さてとどうする」

「へえ。なんのことでございやしょう」

源蔵は「できるものならあっしの手でふんじばりたかったが死んじまったんじゃしょうがねえ」と言い「本心から国を憂い新しい国造りをしてくれるのならあっしだって歓迎しまさあね」

そして「だんな、芋粥はおいしゅうござんしたぜ」と去っていった。

というところで幕は降りる。

 

ううむ。

すばらしい短編だと思う。

なんとなく日本のものというより西洋文学の佇まいを感じる。

幕は降りる、と書いたのは短い舞台劇のようにも思えたからだ。

作品の奥に幕末の動乱を感じることも深味を増しているのだろう。

 

が、

しかし私的には山田一郎と従者のBL関係が気になって気になって仕方ない。そこがこの作品を第一位にのしあげる。

横山作品キャラはあれもこれもBL関係を思わせるけれども個人的には本作『飛猿斬り』の山田一郎とその従者が最高ランクと記したい。

ラストシーン、山田が去っていく前で従者が源蔵の行く末を確かめるように見ているのだがこれは嫉妬ですな。

今まで山田一郎を憎んでいたはずの源蔵が惚れてしまったという顔で好意を持ったことを話し出すのを従者が食いつくかのような顔で睨みつけている。めっちゃ見てる!(ちょっとイケメンなんで腹が立つ。なんで源蔵ここまでハンサムなん)

山田一郎の顔が微笑んだのも従者くんとしては気になるところではないか。

源蔵~~~めっちゃ良い顔して見せるし山田一郎様がその後ろ姿を見送ってるう。

きー悔しいぃという従者くんの気持ち愛おしい。

きっちりいなくなったか確かめる従者くんであった。(二度と来んな)

山田様独り占めしたい従者くん。末永くお幸せに。

なんかせっかくのシリアス感想が台無しに。でも本心はこうなのです。

とにかく心惹かれる短編それが『飛猿斬り』である。

 

最後まで読んだ人の落胆酷かろうて。

『飛猿斬り』横山光輝 その1

1972年別冊少年マガジン掲載

 

今年2月の記事『横山光輝コレクション』の第3話目でも書いた短編マンガ作品です。

読んだその時から忘れられずずっと本作を思っていました。

とにかく残念なのは私が「天狗党」についてまったくの無知だったことです。

これまでも幕末ものなどでその名前を知る機会はあったはずですが本作を読んでも微塵も記憶が出てこないのです。

やむなく急ぎ山田風太郎魔群の通過』を読んだりしてその背景を少しでも知ろうとしました。

本作短編を読むのに背景知識は必要ないのですがあまりにも主人公・山田一郎に惹かれてしまいその苦悩に共感したかったのです。

今回は付け焼刃ながら僅かのにわか情報を頼りに再読してみました。(いや何度も読んでるんですが)

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

『少年忍者 風よ』の時に「横山光輝は幕末ものの印象がなかった」という旨を書いた。『少年忍者 風よ』のタイトルからして「忍者ものなんだな」という予測になってしまうのだ。しかし読んでみると新選組・土方が登場して驚き忍者鈴鹿衆の末裔たる少年風太と深く関わっていく。突如途中から説明もなく風太が土方の敵対する桂小五郎の側に付いていくのが物語としては混迷している。

本作『飛猿斬り』も説明をよく読まずにいると幕末ものと認識しないままになってしまうかもしれない。勿論作者は冒頭で「1864年尊王攘夷をとなえる水戸藩士により天狗党という一党が結成された」旨を明記している。

ただ横山氏はそうした歴史や思想ではなくここでも一人の男(とその従者)の魂と行動を一瞬の輝きのように描写するのである。

 

山田風太郎氏は天狗党の西上(上洛行)を中国・毛沢東の長征との類似点を上げていると書かれているが横山氏もまた長編マンガ『長征』(短編『長征』も)を描いている。

横山『長征』も焦点はイデオロギーというよりもその中に入らざるを得なかった若者たちの思いの方にある。

 

『飛猿斬り』を読むのに知識は必要ないが共感をするのにはやはり少しでも背景は知りたいと思う。

『長征』において毛沢東とその後の中国を知っているかまったく知らないかでは意味が違うに決まっている。

 

という書き出しで時間が来てしまった。

本編はまた次に書こう。

『宇宙船レッドシャーク』横山光輝 その3

ここから第二話「ガニメドの巻」

ガニメドって木星の衛星ガニメデの間違いじゃ、と思っていたら小惑星ガニメドというのがあったのか。あっぶなーい。知ったかするとこだったよ。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

土星衛星タイタンから帰ってきた一色健二はその能力を認められ新しい宇宙探検隊の隊長に任命される。

その探検隊の目的はB座標で行方不明となった宇宙船を探すことだった。

ところが一色の部下となる隊員たちは指折りの腕利きではあるが若い一色が隊長となることに強い反感を持っていた。

そんな中で宇宙船は出発する。(一色孤立しててよく行けるなあ)

 

まず反抗的大人連は宇宙船の酸素濃度を薄くすることで一色を苦しめる。(子ども相手になにやってんだか)

が、一色はこれを見破り彼らへの態度を強くしていく。舐められたら負けだという気概を持っている。

これ以降も一色は命を狙われるが事なきを得ていく。

 

レッドシャーク号は行方不明となっているクイーンメリー号を見つけ乗り込むが中に人はおらずもぬけの殻だった。

さらに船に戻る途中で奇妙な物体を見つける。

 

一色は原子分解砲を用意させて謎の物体に近づく。

表紙のようなすばらしさ。

銃撃しても反応のない物体を一色はロケットに格納して持ち帰ることにした。

 

その後再びクイーンメリー号を調査するがその間に留守居をしていた隊員のひとり兜の姿が見えなくなったのだ。

一色たちは一つ部屋に集まって就寝し見張りを立てることにした。

 

これは滅茶苦茶面白い。まるで『エイリアン2』のようだが『エイリアン2』は80年代映画であり本作はその20年前のものなのだが。

建造物のどこかにエイリアンがいるが居場所がつかめず仲間は襲われて腹に卵を産み付けられてしまう、ってそのままじゃないか。

ううむ。SFには同じような設定の作品がいっぱいあるってことなのか。ジェームズ・キャメロンが横山作品読者だったのか。

主人公が孤立していたとこまで似てる気がするのだけど。

(もう一度観なおすしかないか)

 

第3話「マロー星探検隊の巻」

一色隊長も板についてきた。

今回も指令を受けてマロー星へと向かうがなんと宇宙船内六人の乗組員の中で盗難事件が起きてしまう。

一色は犯人が下田だとつきとめるが下田は実は自分がその双子の弟だということを伝える。脱獄囚だった彼は双子の宇宙飛行士になりすまして今回の任務についたというのだ。

彼には盗難癖がありどうしてもその感情をおさえきれず犯行に至った。

偽の下田は一色隊長の善意も信用することができず無謀な行動をおこして死に至る。

宇宙任務と盗難癖というふたつの設定を組み込むことで面白さが生まれる。

なんだかストーリー構築の手本のようだ。

それにしても間に描かれる場面の美しさよ。

 

第4話「反乱の巻」

 

宇宙船が離陸時に爆破され、一色健二が襲われる。その犯人を追った宇宙空軍のロケットが連絡を絶つ。さらに宇宙空軍にはハイモス星でサイボーグによる反乱が起きたという報告が届く。

次々と奇怪な事件が起きる中で一色健二はハイモス星へ調査に出発した。この任務には以前一色に反抗しながらも共に戦い抜いた那須野もいる。彼は今は一色に全幅の信頼を持っていた。

 

この物語もじっくりと語られていく。

ハイモス星にはサイボーグとなった者たちが二つの派閥となって戦っていた。そしてその心理の裏には地球人への劣等感、不信感もあったのだ。

この物語からは『水星の魔女』を重ねてしまう。

任務のためにやむなくサイボーグとなった人間たち、そのサイボーグを差別する心理、差別される者の悲しさ劣等感、地球人の優越性。そして起きる戦争。

 

サイボーグになる悲哀をマンガでは繰り返し描かれてきたがさて実際の未来はどうなのだろう。

 

第5話「宇宙からの帰還者」

パルタゴ星から帰還したロケット・ノアが不時着し爆発する。

その宇宙船には持ち帰ってきた生命体が乗っているはずだった。

向かった救助隊が見た物はロケットから逃げ出した巨大な怪物だった。

 

怪物に襲われた司令官には宇宙生物から奇妙な病原菌が入り込み錯乱状態になって他の人間を殺してしまったのだ。

が、ノアの飛行日誌にはパルタゴ星のある植物を食べることでこの病原菌を消失できると書かれていた。

折よくパルタゴ星の近くに一色の乗るレッドシャーク号がいたことで一色はその植物を採取する使命が下る。

 

ここでも一色が率いていたのが腕利き隊員ではなく訓練生だった、という面白みが組み込まれている。

要するに「いつもの仲間」というのではなく物語がつくられる度にレッドシャーク号は一色と他のメンバーたちという組み合わせが作られていくのだ。

 

むろん一色はいつものように活躍し任務を果たす。

病原菌という設定は一度使われたとはいえこのエピソードにも工夫が感じられる。

 

ところで疑問なのは本作『宇宙船レッドシャーク』がこんなに面白いのになぜそこまで有名じゃないかということなんだけど。

極論、SFは本格的であるほど日本では受けが悪い、ということなのではないだろうか。

むしろあり程度SFチックな設定にしたら後はバトルになる方が人気が出る。

本作はあまり派手なバトルがなく固定した仲間がおらず主人公一色君は有能ではあるが飛び抜けた何かの能力をもつのでもない極めて実直なSFになっている。

いわば『スタートレック』に近いのだろうけど『スタートレック』にはスポック博士というとんでもない飛び道具がある。

さらに言えば横山光輝『バビル2世』の大ヒットを考えれば超能力少年というスーパーヒーローと固定した三つのしもべ、強力な敵であるヨミを設定してSF要素は極力少なめな方が人気になるのであり本作のような地道なSFは大ヒットはしにくいのだろう。

 

マンガというとSFのようなイメージがありながら長くマンガ界で「SFはダメ」と言われたのは当然なんだろうなと思いつつ悲しくもある。

『宇宙船レッドシャーク』もう少し評価されて欲しい。

 

 

『宇宙船レッドシャーク』横山光輝 その2

これが表紙全体だったのか。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 


ダイモス」だって?とちょっと驚いてしまった。

横山作品に1973年『ダイモス』があるからだけどそもそも「ダイモス」って火星の衛星フォボスダイモスなんだから慌てる必要はない。

横山作品は「マーズ」といい実際にある星々からイメージを作っているのだろう。そういうところも実直な感じがする。

 

地球に帰ってきたロケットの着陸に感動していた一色は「疫病神ジャック」と呼ばれている男と出会う。

彼と一緒にロケットに乗ると必ず事故が起きるのだが帰ってくるのは決まって彼だけだという風評があるという。

 

さて一色の訓練が始まる。

宇宙飛行士の訓練といえば名作映画『ライトスタッフ』がある。私はもうこの映画が大好きで何度も観たのだけど機会があればつい観てしまう。どこをとっても良い映画だけど訓練シーンがまたすばらしい。

ライトスタッフ』自体は1983年製作だけど題材の「マーキュリー計画」は1958年から63年でありその様子が描かれる。

無論本作『宇宙船レッドシャーク』もその影響を受けてないわけがない。

つまり映画『ライトスタッフ』より18年も早い『ライトスタッフ』を横山氏は描いているというのは言い過ぎだろうか。少なくとも私は同じ精神を感じてしまった。

横山かぶれが酷すぎる。

 

同期生が不合格となり一色に別れを告げる。その際に一緒にロケット着陸を観た時使った双眼鏡をプレゼントされる。物語は簡潔なのにこういうエピソードを入れてくるから印象的になる。

一色は同期生が最後に躓いた「カンオケ」と呼ばれる過酷なテストに合格した。

こういうのがかっこいいんだよ。

 

テストに合格した一色はジャック・ローレイの助手となって共に宇宙船に乗り込むことになる。ふたりはいったん宇宙ステーションへ向かう。

うひゃあ、わくわくするね。

ステーションで他のスタッフと合流しレッドシャーク号は土星の衛星タイタンへと向かう。そこに宇宙空軍基地を作るための調査なのだ。

ところでタイタンといえばまたもややはり萩尾望都の『X+Y』を思い出してしまう。

本作とは違い宇宙旅行が当たり前になっている時代の設定だ。つまり『ウは宇宙船のウ』の後が『宇宙船レッドシャーク』でありその後に『X+Y』の世界へとなっていく。萩尾望都氏はSF作品において横山光輝氏の影響を感じるけど他に少年の描き方に踏襲を感じる。

特にバビル2世のクールというより冷酷にまで感じる正義感は14歳前後の少年の特性として萩尾氏の少年の描き方になっていると思う。

例をあげれば『ポーの一族』のエドガーもだけど『バルバラ異界』のキリヤにはバビル2世の血が濃く受け継がれているように思える。

大人を拒む少年の純粋さがバビル2世となりキリヤとなっている。その時期の冷たい美しさなのであり大人になれば柔らかく変化していき少年の冷たい美は失われる。横山氏の描く少年は自然にその美しさが備わっているために読者の心を引き付けてしまう。萩尾氏の場合はそれを自覚して生み出しているのだと感じる。

 

と、話がそれてしまった。

本作の一色は冷たくはないがまっすぐ前を向き突き進むタイプでやはり魅力的だ。だけど優柔不断さが求められる現在のキャラとしては実直すぎるだろう。

 

さてレッドシャーク号は遭遇した流星群を避け目的のタイタンへと到着する。ところがここで今まで強気だった一色が発病し倒れてしまう。

こういうシーンを描くから騒がれるんだよ。

そして一色はジャック大尉のやさしさに打たれてしまう。

 

一色を休ませて他のメンバーはタイタンに降り立ちキャンプ地に適した場所を探し設営する。こうした過程を細かく描いていくのが横山マンガの楽しさだなあ。

出来上がった住居に入った時の心地良さが伝わるようだ。

すばらしい光景。

 

レッドシャーク号に一色を残し他メンバーは設営したキャンプで一夜を過ごすことになる。

ところがここでおそろしい伝染病が発生してしまうのだ。

最初に発病した岩田博士は苦しみ死んでしまった。

 

原因究明をする隊員たちは捜査中に沼地に落ちた岩田博士の宇宙服に付着した泥に得体のしれない菌が見つける。

ここでジャック大尉は「実は流星群を回避したためにレッドシャーク号の燃料が残り少なくなってしまった」ことを話す。

他メンバーは「みんな死んでしまうとはかぎらない」と言い返すがジャックは「死ななくてもここにいる者は地球に帰るわけにはいかん」と断言する。

「この恐ろしい病原菌を地球に持ち帰るわけにはいかん。我々は後から来る者のためにできる限りの調査をしていくべきだ」

 

連絡を受けた一色は皆を残して帰ることはできないと苦しむがジャック大尉の叱責を受けて自分の使命を理解した。

今度は自分が疫病神と呼ばれる覚悟をして一色は地球へと戻る。

 

少年マンガには様々な敵が現れるが怪獣でも宇宙人というのでもなく病原菌によって殺害されてしまう。

これを読んだ当時の子どもたちはどう思ったんだろう。本物だと感じたのではないのだろうか。

 

次は「ガニメデの巻」始まる。

お楽しみに。