ガエル記

散策

ジェンダーバイアスの苦しみより生まれた「日出処の天子」山岸凉子

さて「ジェンダーバイアスのかかった漫画は滅びればいい」というテーマについて書いている間で、山岸凉子日出処の天子」を読み返していました。中身の濃い11巻です。何度読み返したか、判りませんが何度読んでも面白いです。ただしこんなに「ジェンダーバイアス」の呪いにかかった作品もそうそうないだろう、と思うほどに「ジェンダーバイアス」だらけというか作品の核が「ジェンダーバイアス」なのですね。

 

やはりこの作品での聖徳太子である厩戸皇子山岸凉子そのものでありつまりは女性性を否定する女性の在り方を同性愛者の男性という形に変えて表現したものだと思います。

これも偏見ではありますが、本作の物語で厩戸皇子が男性ならばこうも苦悩せずいいのではないかと思うのです。

 

とりあえずネタバレですのでご注意を。

 

 

厩戸皇子は男性でありながら男性である毛人を愛しますがその毛人が布都姫に恋するのを知って嫉妬し彼女を殺して毛人を取り戻そうとする展開になります。

当時の結婚制度や厩戸皇子の身分からしてこのように焦る必要はないはずです。毛人が一時的に布都姫と交わってもその熱はすぐに醒めるはずでそれから再び厩戸皇子は毛人と関係してもいいのですよね。

もう少し言えば、何しろ二人はまだ全然若くて二十歳前後くらいなのだし、この時激情に押し流されて言い争ったとしても少し時間が経って落ち着けば「あの時はかっとなったけどやっぱり好きなのはお前だけ」ってなっても不思議はないんですよね。

「絶交だー」と叫ぶ子供みたいなもんだと思うのです。

しばらくしたら「口うるさい女房よりやっぱ男同士だな」となりそうに思うのです。

でもこれは男同士の話ではなかった。

日出処の天子」は非常に優れた歴史マンガ作品だと思うのですが、超能力を持った聖徳太子とその力を引き出す相手を男性にしてしまったことで毛人のいう「この怖ろしい力を封じるために私たちは同性として生まれてきたのではないのでしょうか」というセリフが同性愛を「神から許されない愛の形」だとしているように読めてしまうのは残念な結末に思えます。

 

日出処の天子」で作者は何を描きたかったのでしょうか。

まず、私は刀自古こそがこの作品の本当の主人公だと思っています。彼女のこの怖ろしいほどのジェンダーバイアスはなんでしょうか。

刀自古はもともと利発で気が強く明るく可愛らしい理想的な少女でした。その彼女は親の言いつけで自分の望みを捻じ曲げられて遠くへ追いやられそこで強姦され堕胎し心を打ち砕かれます。戻ってきた刀自古は気弱になり暗い性格になりなにかと卑屈になりやすく嫉妬や苛立ち焦りに苦しみます。そこまで彼女を破壊してしまったのは男性たちの勝手な自己満足の行動なのですが、彼女を思いやる兄・毛人も悩むだけでなんの解決策も見出すことはできません。

刀自古は実兄である毛人を愛し、無理に兄と性関係を結びます。妊娠した体でごまかしながら厩戸皇子と結婚し兄との子供を生み、嘘を見抜いた厩戸皇子とは偽装結婚を通して他の男たちと肉体関係を持ち続けるというのがその後の作品である「馬屋古女王」に描かれます。

刀自古は本当に兄を愛したのか。どうしようもない自分の苦しみをのほほんと生きる毛人に訴えるために関係を持ったように私には思えるのです。

幾度も親から結婚を無理強いされ、同性の友人もなく母親には何の力もありません。刀自古こそは「ジェンダーバイアスのかかった漫画は滅んでしまえ」ばいいと思うヒロインそのものです。

読むたびに刀自古の存在はむかつくものです。彼女は良い環境で生まれ優れた才能をもちながら運命に流されなんの努力もしていない、ように見えます。強姦によって精神が破壊され、他の女性に嫉妬し謀略し嘘をつく、女って怖ろしいな、といわれるその通りの行動をとっていくのです。

しかし彼女はどうしてそうなってしまったのでしょうか。ひとり彼女を好きになる男性がいるのですがその男は何気なく「お前の過去など気にしない」と言い彼女を打ちのめします。彼に悪気はないのですがでは彼と結婚していたならどうなったのか。何かの折に「お前は昔強姦された女じゃないか」ということがあるわけです。結婚した男性からそう言われてしまうのならせめてこの時彼を嫌った刀自古に賛成します。

 

刀自古はこの物語の闇のヒロインであります。

が作者は刀自古そのものを主人公にはしたくなかった。女性はたとえ優れていてもこんな運命が待ち受けているというロールモデルそのものです。

本作に登場する女性は布都姫も大姫も刀自古の母も厩戸皇子の母もジェンダーバイアスにがっちり縛りつけられています。唯一の救い、額田部女王がいるのですが作者は彼女には共感できなかったのでしょうか。

どうあがいても作者には共感できるイメージで優れた女性がこの男性社会で活躍する物語が作れなかったのでしょう。単純に聖徳太子が描きたかったのかもしれませんが、作者はこの聖徳太子という天才に女性性を秘めさせることで自分の思う「ジェンダーバイアスに縛られない才能ある女性」の姿を描きだせたのではないかと思います。

山岸作品ではあまり厩戸皇子のような男性は出てきません。「女と見まごう美しさ」というより男性という設定にした女性、というほうが正しいのかもしれません。

とはいえ厩戸皇子がそのまま「女性である」というのでもないのです。

厩戸皇子は極端なほど女性を嫌い、特に女性の性交渉を醜悪なものと感じています。つまり厩戸皇子は「女性を嫌悪する女性」の姿なのだと思います。男性もほとんど嫌っていて愛せるのは毛人のような特別な才能と優れた容姿を持った男性のみ、という女性性を厭う女性を厩戸皇子に託したと言えます。

 

女性性のシンボルとして表現される刀自古を女性性に反発する厩戸皇子は他の女性にはない同情を示します。

これは刀自古と厩戸皇子が実は同じ存在だからなのです。

山岸凉子の「描きたいもの」を持たない、他の普通の考え方をする漫画家なら厩戸皇子と刀自古が超能力コンビとしてスーパーパワーを持つアクションものにしたかもしれませんが、山岸氏のテーマはそこではなかった。

 

 

さて、ではこのマンガのテーマはなんでしょうか。

私は美しく優れた才能の女性が好きになった男性が対等もしくは男性が女性の才能より劣っていた場合、その男性はそんな優れた女性は求めていないと気づく、という女性の苦しみ、を描いたものではないかと思っています。

 

続く