ガエル記

散策

差別は変わる

差別意識は変わるものです。

というか、「あれ、昔ってそんなに差別していたんだっけ?」

というようなものもあるのですね。

先日、岡田斗司夫さんのニコ生放送で宮崎駿アニメ「風立ちぬ」の分析のなかで「この頃の眼鏡男子は男としての価値がなかった」という旨の話をされていました。

風立ちぬ」の話なので太平洋戦争直前、1920年代後半から40年ちょっとまでくらいがメインの時代設定ですが特に堀越二郎の少年期1910年代の彼の葛藤の部分ですね。

眼鏡男子、つまり近眼では飛行機乗り、操縦士になれない、というのは適正問題なので致し方ないとしても岡田さんの説明は「だからこそ当時軍人になれない、ということは男性として不合格なのであり女性からもモテず、というより完全に無視されていて男性からも見下されていた」「なので眼鏡をしている男性教師はしていない裸眼教師の前でぺこぺこしている」えええーーーっ、そんな極端な、とは思いましたが、確かに私が子供の時(1960年代から70年代)であっても眼鏡をかけている人、に対して今とはかなり違う感覚だったように思います。

 

昨今は「メガネ男子はモテる?」「メガネ女子萌え」なんていう価値観があったりします。とはいえ「じゃやっぱりギャップ萌えって意味だから今でも良いわけでもないのでは」という意見もあるかもしれませんが、今の感覚とは全く違うほど昔は「メガネをかけて学校へ行くなんて恥ずかしくて耐えられない」とかいう苦悩があったんですよ。その苦悩は今ではちょっと想像つかないほどきついものだった覚えがあります。

 

私なんかもかなり早い時期から眼鏡が必要だったのですがそういう心理はありましたけど、今は眼鏡に対してのそういう罪悪感みたいなものがかなり薄れてしまったのでちょっと忘れていました。

 

今はネットで「メガネ男子=無価値、モテない」などというで検索をしてもこれという案件が出てきません。

ガリ勉というイメージ」なんていうのは出て来てもさすがに「軍人として不適正だから男とみなされない」なんていうのは出てきません。

それほど意識と言うのは変化するわけです。

私が子供時代だったころにはきっとまだこういう価値観が少し残っていたのかもしれません。声に出しはしなくても大人たちはそういう価値観が残っていたはずです。

眼鏡=かっこ悪い、というイメージはせいぜい「のび太君」「男おいどん、トチロー」なのでしょうけどそれこそ作者は戦前の生まれの方なのでこれも仕方ないわけです。

 

私は昔(だから70年代頃?)ゲイ雑誌を見た時、恋人募集欄に「メガネ不可」「メガネ男子はおことわり」というような文句がずらりと並んでいたのにショックを受けてしまったのを覚えています。ほぼ全員眼鏡男子不可、だった気さえします。

さすがに当時でも異性の友達募集に「メガネ不可」は書かれてなかったと思うのですがそこは男同士、遠慮がなかったのでしょうか。私としては「そこまでゲイ男性がメガネ男子を嫌うとは?」と不思議で今まで覚えていたわけですが、なにしろ自分の頭の中に記憶として保存されているだけなのでそれがどのくらいだったのかはもう証明しようがありません。

その頃のゲイ雑誌を見ればあるかもしれませんし、私が見た時だけだったのかもしれませんが、岡田さんの「風立ちぬ」の分析でその謎が判明してしまったように感じたのでした。

つまりゲイ男性は男性的な男性を求めることが多いと思うのですが、かつてはよりその傾向が強かった気がします。「さぶ」はその典型といえますね。

その中で「メガネ男子不可」は「軍人として不合格である=男性ではない」という方程式であったのだと今更ながら気づかされたのでした。

 

もちろん、今はこういう方程式など皆忘れ去ったことです。眼鏡男子はきっとゲイ男性にも「メガネ男子ギャップ萌え」と評価されているに違いありません。

かつてのように「メガネをかけたら恥ずかしくて学校に行けない」という子供たちもそんなにいないでしょう。(と願いたいのですが)

 

眼鏡だけでなく私が子供の頃は他の差別も凄くひどかったものです。今でもある出身や能力の差別だけでなく容姿の差別などが横行していました。

今の若い人が知ったら衝撃を受けるのではないかと思うほど見た目の差別が酷かったのです。

それらはかなり以前に比べれば少なくなりました。以前に比べれば、ですが。

今でも出身や能力に対しての差別は酷いものですが、少しでも良くなっていくように努力していかなければならないですね。

誰もがなにもかも理解しているわけではないのですから、少しずつ進んでいくこと。

悪いことを忘れてしまうほど世界になる、目指していいはずです。