ガエル記

散策

「女ぎらい~ニッポンのミソジニー」上野千鶴子

これは初読ではなく何年かぶりの再読でありました。

最初読んだときも面白く読んだとは思うのですが、続けて上野氏の本を探して読もうとは思わなかったというのはあります。そして今読み返してみるとさすがに何年かの蓄積が年配者の私にもありまして「あの時はよくわかってなかったのだよな」という箇所がというより全体的にこの著書の意味・意義を理解していなかったのでした。

 

今まで日本で生まれ育って50年以上も経ちそれなりに不満やら理不尽さやらを感じていたはずなのに何となく流してきてしまったことに後悔というよりも自分自身に呆れてしまいます。いったい何故もっと怒らなかったのかと?

まあだから何とか結婚し子供も産み育て孫までできる人生を歩んでこられたのでありましょう。

しかしここまで来たらもう少し考えてみたいと思いこのようなブログ記事を書き始めております。

人間とは何か、女とは何か、男とは、何故こうまでして生きていくのか、無学の私がなにほどの答えを探し出せるのかと言われようとも考えてみなければならないと思います。

そのためにはやはりいろいろな本を読むことは大切ですね。

 

さて本著、「女ぎらい」「ニッポンのミソジニー」というタイトル通り日本における様々な女性嫌悪について書かれています。

今回読んでも最も引きこまれて読んでしまうのは「東電OL」についての項で上野氏自身、二つの章にして書いているのはやはりこの事件がそれほど女性たちに強い印象を残しているからでしょう。

とはいえ実際にこの事件が起きた頃、私自身は人生で最も多忙な生活をしておりましてまさに髪振り乱して仕事と育児に没頭しており世間で起きている事件にまで今のように考えたりする余裕がない時期でした。

なのでその時の私はこの事件報道には何も感想を持っていなかったしその後の人々の反応や著作などでの考察なども知りませんでした。

私がやっと気の事件に気づいたのは子育てが一段落する10年後ほどだったでしょうか。

 

佐野眞一著「東電OL殺人事件」も読みましたが、事件を記述したものという意味合いでの本であり、上野氏がいうとおり考察という部分ではむしろ「本に対する感想が男性と女性でこれほど違うのか」という佐野氏の驚きのほうが重要なものでした。

「これは私だ」「私も一歩間違えば彼女と同じことをしていた」という感想が女性たちから続々と訴えられたという佐野氏の記述にこの事件の本質があったのです。一方男性たちからは性的な好奇心からくる感想ばかりであったということも男性の女性の心理への無関心さを物語っています。

桐野夏生の「グロテスク」もそれなりに面白く読めはしましたが現実の「東電OL事件」の苦悩を分散させてしまったようで長編であることも相まって内容が薄まってしまったように思えます。

私はむしろ実際の事件より18年も前に描かれた山岸凉子「天人唐草」がまるでこの事件から描かれたマンガ作品のように思えてなりません。

「天人唐草」はエリートOLが売春する話でも殺人の話でもありませんが、まっさきに「同じだ」と思ったのはこのマンガでした。

絶対的な家父長である父親の威厳とそれに追従するしかない真面目な娘、父親の威厳からくるコネで就職し男社会に翻弄される姿、強い父親(夫)に対し弱い立場でしかない母親の姿、主人公が道を間違えていく鍵に男性の性欲があること、そして狂気。

18年前の作品が現実をすでに描いていたというのはどういうことなのでしょうか。現実の女性がこのマンガ作品を読むことはなかったのか、とどうしようもない思いにもかられます。

 

そして本著の6章に今話題の「皇室のミソジニー」がすでに書かれています。この本での話題は秋篠宮家に生まれた男児への祝賀。

ここなどきっと初めて読んだときの私は読み飛ばしていたに違いないと恥ずかしく思います。

あの時、何故秋篠宮家に男児が生まれた時、なぜもっと深く議論しなかったのでしょうかね。10年経ち、いよいよ押しつまり今やっと論議が沸騰していますがその間も愛子様今上天皇ご夫妻も悩み続けられていたでしょうし、もちろん秋篠宮家も上皇ご夫妻も心労は尽きなかったはずです。

男児が生まれた。よかったよかった」で済ませてしまったこの国はやはりミソジニーで充満しているということなのでしょう。

しかし結局まだ解決したわけでもなく、もしかしたらまた何の回答もないまま10年過ぎてしまい悠仁様ご結婚で是非男児をどっさり生んでくれ攻撃が始まるのかもしれません。

ぎりぎりのぎりぎりになるまで夏休みの宿題は始めない、自慢話のようにして語る人々が多いようです。