ガエル記

散策

「元報道記者が見た昭和事件史」石川清ー歴史から抹殺された惨劇の記録ー

殺人事件報道など気になってしまう人間ではあるのですが、統計数などは気にしたことがなかったのでなんとなく怖ろしい殺人事件などは増えているように思っていたのですが(何しろ初めてそういうことを気にして見ているので勘違いしているのかもしれませんが)この本を読んで殺人事件と言うのは年々少なくなっているのだということを初めて知りました。

本著による殺人事件の認知件数というものは昭和29年の「3081件」がピークで平成25年では「938件」と4桁を割っている、とあります。

ネット検索して確認しようかと思ったのですが検索下手なので上の統計とは少しずれる次のような資料しか見つけきれませんでした。

 

殺人事件被害者数|年次統計

 

http://www.moj.go.jp/content/000112398.pdf#search=%27%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6+%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E4%BB%B6%E6%95%B0%27

 

後にあげたリンク先が本著に書かれた殺人事件認知件数とかなり合致しておりますね。

認知件数ではありませんが次のグラフを表示できます。

f:id:gaerial:20190605051516j:plain

これを見ると他殺による死亡者数は減ってきているのだけれど自殺による死亡者数が圧倒的に増えていて2003年など他殺が700人余りなのに対し自殺が3万人を超え2015年では双方減ってはいても他殺者313人に対し自殺者は23000人以上もあるという数字が見て取れます。

ここでは一応自殺者はさておくとしても、日本における殺人事件の被害者数は年々減少していることがわかります。

なのになぜか、年々殺人事件が凶悪化し増加しているような印象があるのはどうしてなのでしょうか。

無論、殺人事件など「減ってきている」ではなく「一件もない」のが理想なのは当然です。それを社会が目標とするなかでなお起きてしまう殺人に以前より強く感情が反発し反応してしまうからでしょうか。

そして「数百人」という他殺に対し「数万人」という自殺者の数は見逃がせられるものではありませんね。

 

先日の事件で「他人を殺すなら一人だけ死ね」という発言がありました。この意見に賛同する人も多かったようです。これは「自分の苦悩は自分で解決すべきだ」という意見なのでしょう。

しかしこれに反論する意見が現れました。

「苦悩を持つ人に「自分だけ死ね」と言っては行き場がなくなる。そんな苦悩を持つ人に呼びかける言葉は「苦悩を自分だけで抱え込まないで。私たちはいつでもあなたを助けたいと思っていますよ」というものだろう」

確かにこれら統計を見ると今の日本での問題は数字の上だけで語るのなら他殺よりも自殺のほうなのです。

(これは無論他殺を促すものではない。任意を願います)

つまり日本社会は他殺をかなり抑え込む尽力をしてきたのでしょう。それは他殺をしなくてすむような社会を目指してきた表れなのだと思えます。

だけどそれに反比例する、そして数としては比較にならないほどの割合で自殺を増やしてしまった。

他人を殺すくらいなら自分が死んだ方がまし、という性質を持っている国民なのか、もともと人間がそういうものなのかはわかりませんがそれが「良いこと」ではないのは明確です。

他人も殺さず、自分も殺さずにいられる社会、それが理想であるはずですね。

 

さてさて、前置きが長すぎてしまいましたが本著の内容に触れていきましょう。

吐き気を催すような怖ろしい記述をしてしまうかもしれませんのでご注意を。

 

 

 

 

著者石川清氏は猟奇殺人事件や凶悪殺人事件というものは上の統計からしても現代より昭和30年代かそれ以前のほうが圧倒的に多いとしています。1950年ころということになりますからいまから70年ほど前でしかありません。

どうしても昔の事件より今の事件に興味が動くことは当然ですがここに記された過去の事件の壮絶さは現在の私たちの感覚では異質とも思えるものです。

 

好きになった女性を殺して切り刻んで持ち去っていた、不遇な生活を強いられた男児が赤ん坊を猟奇的に殺害した、農村で差別的な待遇を受けていた次男三男らによって家庭内の殺人事件が連続して起きた、そんな話が続く。

特に家庭内の殺人事件という話は状況は違うがどうしても先日の長男殺しの父親の事件を思い出してしまいます。

豊かな農家であった、というのは現代の事件にも重なります。筆者はここで「一連の肉親殺人の背景には、家庭内の不良を成敗するための、一種の“私刑(リンチ)”という側面があったのかもしれない」と書きます。

ここでの問題となる「次男三男問題」は村の近くに自衛隊基地が誘致されたことで徐々に解決されていく、とあります。

ここでの連続殺人が次男三男の貧困から起きたものである、という理由があるからでこうした原因を意図された解決策なのかどうかは判りませんがこれも殺人事件を減らす解決策の一つが貧困をなくすこと、生活できる仕事が発生することなのだということでしょう。

現在のひきこもりたちにもこうした「救助することができる仕事」というものがあり得ないのでしょうか。

考えてみる価値があるように思えます。

 

しかし次の「人肉鍋事件」「子食い事件」になるともう話は目を覆い耳を塞ぎたくなってきます。時期は終戦直前・直後の逼迫した状況の中での事件です。これから考えられることはやはり殺人事件というのは時代背景があり、その時代に応じた殺人が発生する、ということです。

戦争や貧困で飢えていた時代はどうしようもなく殺人をして人肉を食うしか生きることができない。経済的に満たされ戦争がない社会でも様々な要因で人間は苦悩しやはり殺人を起こしてしまう。人肉を食う必要がなくても殺人はおこしてしまうわけです。どちらが酷いのか、ということではない気がします。

 

他人の子供を養子にしたいと引き取ってその際、養育費をもらい子供は殺害する、という事件、「人間の生き胆は一番健康に良い」というビジネスで殺人を繰り返す、同じような人肉黒焼きが体に良いという事件は「スターウォーズ」が公開上映されていた頃のことだとか。

今でも移植手術のためにどんな事件が起きているのか想像するのも怖ろしい、という現実があります。

人体がビジネスになるがための殺人事件、昔だけのことのようでこれは今でもありうることでしょう。

そして宗教による殺人事件。正直言ってこれは未来でもなくなることはないように思えます。

宗教という口実があればそしてそれを行わなければ神が怒る、不幸がある、と言われれば何が起きても不思議ではない。人間は何をしでかすのか、全くわからない生物です。

 

 

 上に書きましたが、他殺も自殺もない社会、そんなことをしなくても幸せになれる社会、そんな社会を目指すことが理想であることは間違いないでしょう。

他殺をしてしまう原因は様々にあり人は好い社会を作り上げることによってそれを少なくしてきました。

貧困・無知、それらほど怖ろしいものはないのです。

衣食住が満ち足りていて情操豊かな教育が成される。そうした社会を目指すのは人間として当然です。

それでもやはりその道は困難なのですね。

他殺をどこまで食い止められるか、そして自殺者を救うにはどうすればいいのか。

私は子供を不良品とみなして殺害した父親の事件を「共感」したりはできません。

躾と称して虐待する父親とどこが違うのでしょうか。

家父の権力を使って性暴力を行う父親と変わりはしないのです。

勿論育児教育は難しく、私自身どうしようもできない迷い道の中にいます。

でも殺人はいけない。

自分を殺人することもいけない。

どうにかして道を探し出す工夫をし、社会に生きる者たちはみなそれを手伝う助力をしなくてはならないのだと思います。

歩むのが困難な道ですが、私たちは手探りしながらその道を見つけ出していかなければならないのだと思います。