ガエル記

散策

「半藤一利に問うた難しい質問」を読んで


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この記事は読むことができてすごく良かったと思います。

まったく知らないことが多すぎます。いつまでも勉強ですね。

 

一番目のリンクでは

昭和15年頃になると、半藤少年は互助組織だった「隣組」が監視機関に変貌するのを目の当たりにした。「この戦争は負ける」という父の発言を密告され、半藤家は1年あまりの間に3度も警察に踏み込まれたのだ。

 

防空壕の中があんなふうに蒸し焼きになるなんて……想像を超えていました。蒸し焼きだから黒焦げじゃないんです。おびただしい死体が折り重なっていてね。それを片付けていくと、一番下の死体だけは直接地面に接触して炭化している。これは、実に軽かったですね。中学2年の私がひょいと持てちゃうくらいでした。

 

旧軍人って、嘘をつくんですよ。もちろん誠実な人もいましたが、それ以上に、他人の話を自分のことのように話す奴、自己弁明する奴が山ほどいた。初めのうちは私も本当のことだと思って全部鵜呑(うの)みにしていたんです。ところが、だんだん取材を重ねていくうち、他の証言や記録とかから考えて、コイツがその日時にその戦線にいたはずない、ということがわかってくるようになった。それを指摘すると激高するんですよ。お前みたいな戦争を知らない若造に何がわかる! ってね。それで言い返すようになった。

『あんたはそう言うけど、本当は最前線に出ないで南の島の基地にいただけじゃないか。そのころ俺たちは本土空襲で焼夷弾を山ほど浴びて、死ぬ思いをしたんだ!』。そう言わざるをえなくなった。

 


私自身、必死に東京大空襲を生き抜いたけど、だんだん語り慣れてくるというのかな。気がついたら、非常に冷静沈着な勇気ある少年が、あの火事の中を逃げて、人を助けようとして川に落ちて……なんて、格好いい体験談になってきた。

あのときの私は、実際はそこら中に散らばる死体を見ていても、哀しいなんていう気分は全然なかった。麻痺していました。そういう言いたくない部分は抜け落ちてしまうんです。ただ、書くときはさすがに自制が利きますから大言壮語にはなりにくい。最近、よく『体験を語り継げ』という声を聞きますが、じつは語り継ぐのは難しいことなんですよ」

 

もう全部引用になってしまいますが日本人としてこういう話は読んでおかねばならないと思います。

 

「私に言わせれば昭和8年以来、日本に外交なんてものは一回もありません。

昭和8年3月。決してやってはいけなかった国際連盟脱退から、日本はどんどん突っ走って戦争になり、敗戦になった。昭和27年に独立したといっても、その日から安保条約の傘の下に入り、自分たちのことを米国に丸投げした。それが今まで続いている。昭和8年から外交がないということは、もう誰一人、日本人は外交の経験がないということです。だから北方領土の暴言を吐く議員みたいなのが出ても、どうしようもないんですよ。

北方領土のことで言えば、かつて幕府海軍を率い、維新後に駐露特命全権公使になっていた榎本武揚(たけあき)が、樺太千島交換条約を結びました。日本国内では、広いほう(樺太)をロシアに渡すとは、と大不平が出たんですが、実はロシア国内もこの決定には大反対が巻き起こっていた。

『あんなだだっ広くて何にもないところをもらってどうするんだ。俺たちに必要なのは太平洋に出ていくための足がかりじゃないか。千島が日本の領土になったら、ロシア艦隊が太平洋に出る海路は封鎖されてしまう!』と。

榎本は目先の大小にとらわれず、その地が将来どのような役割を果たすかまで見通して交渉した。榎本が行ったことこそが外交というものです」

 

どれも噛みしめなければならない事柄ですね。

ただ私が本当に驚いたこと、初めてそんなことを聞いた、考えたこともなかった、というのは次の文章です。

私が話したことのひとつは、私たちの国は、“内陸に乏しい“ということです。北の北海道から南の沖縄まで、長~い海岸線を持っていて、海岸線の長さだけで言えば、日本は世界で6番目に長い。ところが真ん中に山脈が通っているから、生活できる土地は少なく、国民は海岸にへばりついて生きなければなりません。

そして、こんな海岸線を守ろうとしたら何百万もの兵隊が必要になります。

要するに、この国は、戦争になったら守れっこないんですよ。さらに現在は、原発が海岸線沿いにずらっと並んでいる。ますます守れないじゃないですか。こんな日本が戦争をしていいわけがない。これが本当のリアリズムであり、地政学というんです。

 

すみません。

私はまったくの不勉強で「地政学」というものの名前すら知りませんでした。

しかし「地理」における物事の在り方、ということはほぼ常に考えているわけですよね。

例えば「東京ばかり華やかで地方民は地味」みたいな話はしょっちゅうしているわけですし、「インターネットの普及した現在ではどこにいても仕事はできる」みたいなことを言っても結局主要な会社は都会に集中していますし、若者はそこへ流動していくわけです。

勿論現在大騒ぎなる北朝鮮問題だって隣国であるからこその大問題なわけですね。日本う小さな島国の隣は強大な中国、そして常に朝鮮半島を意識しライバル視しているのは地理的な問題であるのは明確で遠い国であればこれほど意識はしないはずです。

アメリカは環太平洋としての位置があり、ヨーロッパやアフリカに対して意見が少なくなるのは遥か遠い国、という認識だからですよね。

そして島国である日本は全面から攻撃されてしまう恐れがあり、小さな国土なのに世界で6番目に海岸線が長くそこには原発がずらりと並んでいる。いつでも放射能を拡散させられるお膳立てをしているようなものなのです。

こんなことすら考えずに生活しているのだからおめでたいことこの上なしです。

 

休憩時間になり、紀子妃が淹(い)れてくれたお茶を飲みながら半藤氏が「質問がありますか?」と聞くと、悠仁さまは手を挙げて「アメリカはなぜ広島と長崎に原爆を落としたんでしょうか?」と質問した。

「質問を受けて、これはなかなか難しいぞ、と思いながらも丁寧に答えましたよ。細かいことは忘れてしまいましたが。

あの戦争は片一方だけが悪いんじゃない、向こう(アメリカ)も悪いんだという説が当節盛んです。ですが、少なくとも戦争の状況に持って行くまでは、日本の責任が大きいと私は考えています」

 

「日本の責任が大きい」

こう言い切ってしまうことが今の日本ではとても難しい。

他人に対して「自己責任」を問うことが大好きなこの国民ですが、自分の「自己責任」は認めたくないのです。

誰かのせいにしたいのですね。

もしくは見ない聞かないふりをし何も語ろうとしない。

 

「人は低きに流れるもの」

攻殻機動隊で学ばなければなりません。

 

二番目のリンク

統帥権

これも全部読まないといけませんが全部読んでも実はよくわかりません。

 

このことを、司馬遼太郎さんは「陸海軍は、国家の中に国家をつくった」と、話していた。国家の中の国家では、軍人たちは、自分たちの思うとおりにやっても、一向に構わないんだと思っており、これに実体を与えてしまうのが「統帥権」という魔法の杖だった、とね。私は統帥権だけが悪いのではなく、統帥権を振り回したやつらに罪があると思っているので、司馬さんとはこのことについて、ずいぶん議論をしました。

 

結局統帥権はあるのか、ないのか、この記事の説明ではよく判らないのです。

つまり統帥権をもっていたのは「天皇」なのか「軍人たち」なのか。

天皇統帥権をもっているのならやはり天皇が「戦争やめる」と早くいうべきだったのか。

 


先ほど大元帥陛下が軍隊の指揮をとる権利のことを「統帥権」というと話しましたが、さらにややこしいことに、国家が戦争を始めるかどうかの「宣戦(=開戦)」と「講和(=終戦)」の権利は、大日本帝国憲法第13条によって、「天皇陛下」の大権として定められ、それを内閣が輔弼することとなっていた。戦争は天皇の責任になるかというと、これが難しいところで、なぜなら内閣の意見の一致を見ないと、天皇はこれを許可できなかったからです。

 

なんだかぐるぐる目の前のしっぽをくわえてまわる犬のごときです。

(犬に例えるとは畏れ多きですが)(どっちに?)

日本という国は本当につかみどころのない、頭と思えてつかんだらしっぽだったというような生物です。

影と思って踏んだら実体だったみたいな。

結局「誰の責任」ということなど誰にもわからないぐにゃぐにゃしたなにかなのでしょうか。

 

終戦のときが、一番わかりやすい例です。終戦決断の御前会議において、鈴木貫太郎内閣が、ポツダム宣言を受諾して降伏するという決定をし、それを昭和天皇が許可して、終戦詔勅に御名御璽を据えて、閣僚全員が副署したわけです。それで太平洋戦争はとりあえず終わった。天皇がやめろと言ってやめたんじゃなく、あれはあくまで内閣の意志なんです。

 

きりがない。

 

そのとき、大井篤という海軍軍人が、軍令部の議論白熱した中で、「天皇陛下大元帥陛下がいるが、その上には大大天皇陛下がいるんだ。大大天皇陛下終戦の命を下したのだから、大元帥陛下はそれに従わなければならないのだ」と発言したといいます。もう空理空論になっているけど、そんな馬鹿馬鹿しいことが最終局面では起こっていたんですよ。

 

「大大天皇陛下」もう子供の発言のようです。

 

こういう勉強を天皇家の方々がなされている、ということだけは心の拠り所ではあります。

できることなら戦争のことなど考えず雅なこと祝賀などだけを行っていただければどんなに良いことか。

秋篠宮統帥権についてまだ幼き我が子に学ばせたいと思われたのはやはりこの時期の空気なのでしょうか。

ただ一つの勉学であっただけであるよう願わずにはいられません。