ガエル記

散策

アニメ「機動戦士ガンダムTHE ORIGIN」 安彦良和

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6月は「銀河英雄伝説」アニメ鑑賞一色でしたのでやっと「ガンダムオリジン」を観始めました。

これは安彦良和マンガでも読んでいます。ファーストガンダムでは「もうひとりの主人公」と称されていたシャアは作品を経るごとに本当の主人公になっていきましたね。

ユニコーン」のフルフロンタルの登場を見て「ガンダム」の主人公はシャアだったのだなと思わされました。

しかし「オリジン」を観ていくと「シャア・アズナブル」が主人公ではない、と知らされます。

と言ってもファーストの時からシャアの本名がキャスバルであることは知らされてはいたのですが、その名前が変わった理由が「オリジン」で語られていきます。

ガンダムの主人公は「シャア」ではなかった。

本当にややこしい物語です。

しかしキャスバルはシャアとして生きていくことを決意したのですからやはり彼は「シャア」なのだともいえましょう。

 

それにしても安彦氏はなぜここにきてかつてのガンダムを再び描き出したのでしょうか。

私の記憶としては安彦氏はガンダムなどで素晴らしいキャラデザインと作画をされていたのですが自主映画で評価がされずそのままアニメ界を退かれマンガ家として活動されてきた、という経過であったように思われます。

漫画家として当初の何作かは正直に言うとあまり良い作品とは思えない気がして私は大好きだったにも関わらずしばらく読まないままになっていました。

再び読み始めたのは「虹色のトロツキー」が完結した後一気に読んでしまってからです。

安彦作品はよくある単純な善悪で語ろうとはしない捩じれた感覚があるのですが私はそこに魅力を感じました。追随を許さぬほどの優れた画力も相まって安彦作品をそれから読み続けています。時折、「この画力がないほうがマンガとしてはよかったのかもしれない」とまで思ってしまうのですが、基本的に安彦キャラ大好き侍としてはなんの文句もないほど安彦作品がすきなのです。

この魅力はなんだろう、と長い間思ってもいます。

 

その回答は先日観た映画「アイ、トーニャ」で少し判ったように感じました。

「アイ、トーニャ」はオリンピックに出場したフィギュアスケート選手トーニャ・ハーディングのとんでもないゴシップ記事に焦点を当てた映画ですが、私は彼女が当時から嫌いでそんな人の映画など見るわけがない、と思っていたのですが見ると驚くほど面白いのですね。

これは完全に製作者の技術なのでした。

この技法で行けば世界中のどんな悪い人、だけでなく平凡な人でも「面白い作品の主人公」になれるのです。

英雄やスターだけが主人公になるのではなくすべての人に語るべき物語がある、ということをこの映画でやっと知ることができた、と思っています。

安彦作品にもそんなある一人の人物の語るべき物語がある、ことが魅力なのではないかと思います。

なので、というかですからスター性だけに魅力を感じる人、英雄のみが観るべき価値がある、と信じている人には安彦作品は物足りないのかもしれません。

 

物語そのものにも同じことが言えますね。特別な爆発するようなクライマックスがなければ面白くない、という人と小さな変化のなかに特別なものを感じる喜びを見出せる人とは好みが違うのです。

 

男女の性差を比喩に使うのが嫌いであればここは読み飛ばしてもらいたいですが、男性的な物語性と女性的な物語性の違いともいえます。

物事の展開しかも大きな展開に興味を持つ男性的物語と心理の変化に興味を持つ女性的物語の違いです。

 

例えば少年マンガの多く(ほとんど)は男性的物語ですし、少女マンガは心理描写で構成される女性的物語がほとんどなので相容れないことが多かったわけです。

 

しかし今その境目は目立たなくなってきたのかもしれません。

ファーストガンダムの男性的物語=出来事を表現する、から安彦氏のガンダムオリジンがアニメ化される運びになったのは人々の(特に日本アニメ界の人々の)感受性の変化があるのではないでしょうか。

 

余談ですが「進撃の巨人」の人気を見てもいままでの単なる出来事マンガから心理マンガに変わってきたことがはっきり判ります。

 

 主人公がいつまでたっても小中高校生というアニメばかりという呪縛もなくなってしまうことも願いつつ、アニメの成長を少し感じられるのは喜ばしいです。