ガエル記

散策

「アラバマ物語」ロバート・マリガン

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幾度かテレビ放送で途中場面を観たりすることはあったと思うのですが、久しぶりに全体を通して観てみました。

昔の映画を久しぶりに観てみると時々おやっという違和感が生じる場合があります。ましてやこの映画は1962年制作のものなのでモラルや感覚などがずれていておかしく思ったり嫌悪感を感じることさえあるでしょうが私としてはなにも奇妙に思うことはなかったようです。しかも差別意識に関してはさほど変わってないのではないかとすら思えてきます。トランプ政権の現在ではなおさらですね。

 

とは言えこの映画はとりたてて黒人差別反対のみを主張している作品なのではなくて人間が生きていく過程で様々に迷い混乱し間違った道を進もうとしたとしても色々な人々との交流の中でより良い方向へと進むことができる可能性を物語っているのではないのでしょうか。

それはスカウトのような幼い子供だけではなく父親のアティカスも娘の言葉で形式に偏りすぎていたことに気づかされ、本当に大切なことは何かを考えそれが良いと自らを修正できる柔軟な心をいつまでも持っていようと言っているようです。

 

スカウトは男子とケンカしてしまうほど活発な女の子で、愛情豊かですがまだ判断が幼い部分もあります。

母親は亡くなっており黒人女性のメイドが家事を切り盛りしていて家族皆が彼女を信頼しているのがわかります。

スカウトが来客に失礼な態度を取ったとメイドからおしりをぶたれて叱られる(このくらいのぶち方であれば体罰厳禁の現在でも許されるとは思いますがここくらいでしょうか。ちょっとひっかかったのは)

一方アティカスはきちんと教育はしますがまだ小さなスカウトを抱きしめて話してくれるのがなんとも優しく思えます。

 

この映画が古臭く見えないのは今に通じるいろんな要素が含まれているからでしょう。

父親を「お父さん」という敬称ではなく「アティカス」と名前で呼んでいることで親子の関係が一方的な父権ではなく対等なものであるということ。

黒人女性のメイドを一人の女性として敬意を持っていること。女の子であるスカウトが髪を短くしてジーンズのほうが好きなこと。学校へいくためにはスカート着用になるのだけど映画の中で「女の子は女の子らしく」というような言い方をしていないこと。

アティカスの家が特別に金持ちではない。

黒人男性の弁護をするが他の人からの要請でありアティカスが真面目に取り組んだが有罪となってしまうこと、つまり劇的な逆転劇とか華やかなパフォーマンスが演じられるわけではない。しかも被告人は死んでしまうという結果になってしまい、アティカスはアメリカ映画によくあるヒーローにはなり損ねてしまうのです。

そしてなんといっても隣に住む引きこもりの青年ブーの存在。

ブーこそが英雄的な活躍をしたのだが、それを公表することは却って彼を不幸にする、という判断をすること。

ここで正義の人アティカスは自分が娘に教えた言葉を自分に問いかけるのです。

 

もしかしたら野犬を撃ち殺す場面を問題にすることもあるのかもしれませんね。

しかし野犬は怖ろしい狂犬病の危険性も含んでいます。

子供たちも住む町に野犬がいた場合それをどうするのが正解なのか。

トム・ロビンソンを救うにはどうしたらよかったのか。

ブーをもっと早く救えなかったのか。

 

この映画にはまだまだ解決されていない多くの問題が含まれてもいます。

なにもかもが無事解決することはありません。現実はあまりにも多くの問題を抱えたままです。

原題「To Kill a Mockingbird=まねしつぐみを殺すのは」=歌うだけで悪いことはしないまねしつぐみを殺してはいけないよ

そのとおりなのにとても難しいことなのです。