ガエル記

散策

「王妃マルゴ」(7巻まで)萩尾望都 その苦悩は癒えていないのです

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7巻かなり前に発売されていましたが、やっと読めました。

やはり面白かったです。

史実(といっても史実は知りませんが)を描いたマンガでフランス宮廷を舞台にした宗教戦争、様々な人々の野望と愛憎が渦巻く物語でかなり駆け足で話が進んでいくのですが、萩尾マンガは波長が合うのか私はとても読みやすいです。

 

ここで山岸凉子氏を引き合いに出すのは申し訳ないですが山岸氏の「レベレーション」と比較しても同じくらいの年齢(と思いますが)の仕事内容として萩尾氏のクオリティの高さは驚きます。(「レベレーション」はそれでも楽しみなのですが)

技術力のピークと(私は)思う90年代萩尾氏40代「残酷な神が支配する」そして私は最高傑作だと思っています「バルバラ異界」は2000年代・氏50代の凄さに比較するとさすがに全体的に緩くなっているのですが、それでも内容の充実感そして躍動感に圧倒されます。

 

そしてさらに比較するとずっと通して優秀な男性が女性の若さ・美しさのみを欲求することへの苦悩を描いたきた山岸凉子は「レベレーション」ではまるでその枷から解き放たれたように思えるのに対し、萩尾望都は愛情を与えてくれない父母への憎しみを描き続けてきたのですが「バルバラ異界」では子供を愛する父親という視点で描くことでその苦悩から解き放たれたと思わせたのに「王妃マルゴ」では再び自分勝手な母親と娘、という苦悩に舞い戻ってしまっている。

これは山岸凉子が「枯れた」ぶん(ひどい言い方で申し訳ない)苦悩も「枯れた」と言ってもいいのでしょうか。

山岸氏が常に描き続けてきた理想の男性像、ヒロインに夢を与える眉目秀麗で支配型の明晰な男性が「レベレーション」には登場しない。そのせいもあってかヒロインは「男性が女性の若さと美しさだけを求める」という苦痛はなくなりもっと普遍的な「女性は男性のようになぜ自由にいきられないのか」というテーマになっているように思えます。この苦悩もまた重要なものですが山岸氏が苦しみ続けてきた「女の若さこそ美しさ」という解決しようもない苦しみに比較すればまだ葛藤すべきものと思えます。

とはいえ「日出処の天子」の時も「若さへの苦しみ」よりも「男女の性差による生き方の違い」が顕著でしたから宗教物語になるとそうなるのかもしれません。

 

一方萩尾氏は才能が枯渇していない分、苦しみもまた枯渇していないのかもしれません。

萩尾氏の作家活動では「親子の軋轢」というものが常に題材としてありました。身勝手な親の子供への圧力は次第に虐待という形として明確になっていきますが先に書いたように「バルバラ異界」では親の気持ちが理解できない子供を父親の視点で描くということで萩尾氏の葛藤が昇華したのかと思っていましたが、よく考えてみれば「バルバラ異界」ですれ違っている親子が率直に仲直りしたわけではありませんでした。

そして「王妃マルゴ」は歴史もののなかで「悪女」「奔放な女」と罵声を浴びる女性は「実は自分の気持ちに忠実に生きた女性」だったということではないか、と問いかける物語のようでいて実は「我が子を意のままに操る母親とそこから逃れようと必死でもがき続ける娘」というテーマであるように思えてなりません。

萩尾望都こそが父母の圧力から逃れようとずっと優れたマンガを描き続けながら未だにそれから逃げ切れずにいるわけです。

自分の両親はマンガを描くずっと娘を評価してくれなかったと萩尾氏は語っています。それが本当なのか、萩尾氏の思い込みなのか、判ることではありませんが、萩尾氏自身がそう感じその呪縛からどうやっても逃れられない、と感じているのは事実なのでしょう。

数ある歴史物語の中でこの作品を描くことをどうして選んでしまったのか。カトリーヌ・メディシスという母親に厳しく育てられ、最愛の人=ギーズとの結婚を阻まれその後も支配されるマルゴという才能豊かな類稀な美女、という話に萩尾氏は共感したに違いないのです。

父母の愛情深く育てられた娘、例えばジャンヌ・ダルクには描きたいほどの共感は無かったでしょうし、エリザベス女王マリー・アントワネットもそれほど興味をひかなかったのではないでしょうか。

王妃マルゴ」には萩尾氏の長い間いまだに癒えていない苦悩がまざまざと描かれています。