Netflix作品『ローマ』やっと観ることができました。
最初観た時の印象は「なんてゴージャスな映像なのだろう」でした。
なんというのか、ここ最近観る映画でこんなに重厚な印象のある映像はあまりないように思えたのです。
濃厚で美しいこっくりとした味わい、という感じでしょうか。
かつての映画にはこういう完璧な美しさとか計算されたセンスとかいうようなものが優れた映画監督によって作られていたように思うのですが、ある時からそういう卓越した美観はあまり好まれない、かむしろ理解されないためか遠ざかっていたようにも感じます。
そんな懐かしい豪華な映像がよみがえったかのように思えました。
もちろんこの「ゴージャス・豪華な映像」といったのは煌びやかな衣装を着けた美男美女がいるお城などという意味ではありません。舞台はメキシコの地方都市でありモノクロームで映し出される光景はむしろ素朴で登場人物は特別な美貌ではないのですが、物語を追っていく映像そのものの深い美しさに対しての形容として使っています。
ヒロインであるクレオはメキシコのローマという町に住む裕福な家庭に住み込みで働く若い家政婦です。
4人のまだ小さな子供たちの面倒を見ながら家事を切り盛りするクレオが屋敷の屋上で小さなラジオで音楽を聴きながら手で洗濯をしている場面の素晴らしさ。
ラジオから「私は貧しい生まれであなたに愛してもらえない」という物悲しい歌が流れるのを口ずさむクレオ。
石造りの屋上のあちこちにたくさんの洗濯物がぶらさがりしずくが落ちている音がする。末の小さな男の子は髪が薄色でとても愛らしい。(もしかしたら監督自身なのでしょうか)
死んだふりをする男の子の真似をしてクレオもしばし石台の上に横たわる。
「ねえ死んでるのもいいね」
クレオには物思うことがあるようです。
しかし映画の冒頭の場面のタイルに水を流す場面、そしてこの屋上での洗濯ものの場面の清々しい美しさにいっぺんで参ってしまいました。
もしかしたらキュアロン監督はこの場面を皆に見せたかったのではないか、この屋上の洗濯物に共感してほしかったのではないかとさえ思えてしまいます。
そして大きな車に乗ってパパ、家長であるアントニオが帰ってきます。
なぜか駐車スペースが車がやっと入るくらいの幅しかなくアントニオは何度もハンドルを切り返してなんとか車を収めました。
家族団らんでテレビを見る中でクレオも床に座ってしばらくテレビを見ます。しかしすぐに奥様からお茶を頼まれてクレオは部屋を出ます。
白人系の奥様ソフィアと先住民族系のクレオの対比は明らかです。
この物語のヒロインは貧しい家の出だろうクレオであり彼女の豊かな黒髪とがっしりとたくましい体格が印象的です。
クレオは聡明な眼差しを持っています。そして彼女は家政婦であり常に立場をわきまえてなくてはなりません。
アントニオが大きな車を無理やりねじ込む場面は彼の存在を意味しているように思えます。
家族はにこやかにパパを迎えますが、すでに未来が暗示されてしまいました。
クレオの不安そうな様子も気になります。
それでも一緒に屋敷で働く女性アデラと節電のためにろうそくを灯しながら美容体操(?)をしている場面は微笑ましいものでした。
良い映画なのでゆっくり感想書いていこうかと思っています。
なので続きます。