観ながら書いてます。
日本で大喝采、海外では大ゴケと言われています。日本人ならこの面白さがわかるはず、と言わんばかりですがそれでも共感できない日本人もいるわけですよ。
私自身は最初観た時からソリが合わず、2度3度と鑑賞を試みたのですがどうしても居心地が悪く、もう観る気持ちになることもないかと思っていたのですが岡田斗司夫氏の話を聞いてもう一度観てみようという気持ちになってしまいました。
登場人物はとんでもない早口でまくしたて続ける政治家たちがメインになっておりその誰にも共感はできない。アメリカ英語が母語という女性のしゃべりもうざいだけ。それらの会議やら報告やらが延々続く。
そこへゴジラが現れて大都市にゴミゴミと立ち並ぶ建築物に巨大な火炎を吐く。途端にうるさい日本人たちが意気消沈して黙り込む。
ほっとしました。
むしろ焼き尽くしてほしいと願いました。
この映画は何故反日だと騒がれなかったのか?
不思議です。
あの『日本沈没』もレビューに反日作家か、と書かれていたのに。
ここまで現在日本社会を破壊しつくしている『シン・ゴジラ』は何故「反日認定」されなかったのでしょうか?
「反日認定」のテキトーさ、あやふやさに呆れます。
とりあえずヤシオリ作戦でゴジラを凍結したかのように見えてゴジラが滅んでないことはラストシーンに見えています。
この映画の登場人物は「嫌な日本人の姿」だけに思えます。主要人物に「家族が感じられない」ことも日本人の姿ではありませんか。
発せられるセリフも考え方もキャラクターも行動も「嫌な日本人」そのもの、で作り上げたのは庵野監督の本心であると思います。
偶然そうなったのではなく庵野監督は「そういう日本人映画」を作ったのだと思っています。
2世政治家であるヒーロー・ヒロインがトップであり、政治家と自衛隊だけですべてが動かされていく映画であるのは庵野監督の皮肉、ではありませんか。
この映画には人間味のある温かさ、家族愛、友情、恋愛、などという本来映画に在りうべき要素が欠如しています。それを「余計なものを取り去ったシンプルでスピーディな娯楽映画だ、素晴らしい」という考え方は庵野監督の皮肉に気づいていない発言です。
本作にはそういう人間がまず真っ先に求めなければならないものを排除されていたことを本当は気づき批判しなければならなかったのに多くの日本人は「それ」を必要とせず喜んだ、ことは庵野監督の罠にかかってしまったのではないかと思うのです。
本作でゴジラの調査データを残した牧博士のみが愛する妻のために行動した唯一の主要物になっています。
『シン・ゴジラ』という映画に対する批評は「なんじゃこりゃ」であるべきです。
「ここにはなにもない」
そういう怒りを引き出そうとした庵野監督の思いを感じなければいけなかったのではないかと考えます。
海外の人々の冷え切った対応こそ『シン・ゴジラ』への正しい反応だったのです。
ゴジラは正しかった。
この狂ってしまった日本社会を焼き払ってしまうしかこの国を救うことはできなかったのです。
しかし現実に『シン・ゴジラ』はいません。
赤坂は言います。「スクラップアンドビルドでこの国はのし上がってきた。今度も立ち直れる」
しかし焼きがたりなかったのではないでしょうか。
矢口は「日本いや人類はゴジラと共存するしかない」とも言います。
どうやらゴジラは何度も暴れることは決まりのようです。
「事態の収束には程遠いからな」
ゴジラのしっぽに絡まる醜悪な「ナニカ」
「反日」映画を嬉々として受け入れた不思議なる日本人たち。
それは収束せず何度も日本を暴れまわるようです。
それに対する日本人の対応はひたすら上層部のみによる攻撃と凍結。
壮絶な皮肉で作られた映画だと今回の鑑賞で気づきました。
むしろゴジラに焼き尽くしてほしかったと思う私は相当疲れているようです。