ガエル記

散策

『シン・ゴジラ』庵野秀明 もう一度書く

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シン・ゴジラ』についてもう一度書いてみたいと思います。

 

怪獣映画と聞いてオーソドックスな物語を想像した観客には奇妙な作品であるでしょう。もちろん庵野監督の特徴を知っていて大好きな人たちには納得の作品であり満足させてくれるものなのですが。

 

それ以外の人の目にはとても変な設定と筋書きなのです。

 

主要人物は政治家とその補佐をする立場の人間たち。そして命令を受けて動く自衛隊員たち。

主人公は代々続く政治家一家の生まれという立場で内閣官房副長官という位置にいる男です。

多くの物語はそうした「上の人間」ではなく市井の人々つまり「下の人間」の中から主人公が生まれ、知恵や勇気や行動力で「上の人間」に働きかけ敵と戦う、方式であり、それは読者観客がそういう主人公に共感しやすいためなのですが、この映画の主人公は最初から通常の主人公から離れた立ち位置についています。

市井の人からの視点はまったくありません。つまりこの映画は「自分と同じ種類の主人公に共感しながら観る」ものでなく「まったく別の世界にいる主人公を眺めている」形式なのであり二重の意味で画面を見ている、テレビやインターネットでニュースを見ながら「うわー」と言ってる状態なのです。

逃げ惑う大衆の中に自分がいるのではなく映されている画面を眺めているわけです。

車の中の男女の声やSNSのつぶやきも本人の顔が映されないために大衆の視点はなにもない、ということを表しています。

自衛隊員たちに特別な焦点も与えられないので本作で顔が見えている、人格として表されているのは「政治家」の立場の人々だけです。

主人公は正確には特殊な公務員になるわけですが政治家三世の身分という肩書を持ってそのことに反抗をしているわけでもなく受け入れている主人公というのは珍しい設定に思えます。主人公自身がそういう肩書の上で活躍し、政治家たちが考え行動する「だけの」映画。大衆の考えや行動はすべて無視した物語、というのが『シン・ゴジラ』という作品なのですね。

 

これはいったいどういうことなのでしょう。

庵野秀明(もうひとりの監督はあえて外して考えます)という人物はどうしてこのような他にないあえて言えば稀な設定と筋書きにしたのでしょうか。

脚本も庵野秀明監督なのですからやはりこの映画は庵野秀明の思考そのものなのでしょう。

 

主人公・矢口は政治家一家の肩書を利用してのし上がってきたという男で鼻持ちならず、ヒロインもまたアメリカでの政治家一家で女性大統領を目指しておりこれでもかというほど軽薄な馬鹿丸出しの女性です。

話される英語の発音も下手なのに鼻持ちならない高慢ちき女、これはいったいどういうことなのでしょうか。この勘違い女アン・パターソンを演じるのは石原さとみですが、彼女自身は優れた女優だと私は思っています。いったい彼女はなぜこんなみょうちきりんな女を造形してしまったのでしょうか。

 

そして突如出現したゴジラに対する間違った判断と対応はいかにも日本人政治家たちを思わせる。この際にもきちんと会議室で並び座る不気味さ、型通りのやり取り、優柔不断。外国に援助を求めることもしない。

 

登場人物の誰にも共感共鳴できず、出てくる人物はやたら早口でしゃべりまくるだけ。

家族や友人や恋人の心配すらしません。彼らはただ働いていれば良いと思っています。

家族愛や友情や恋愛すら存在しない世界。

誰も好きになれない世界。

いったい庵野監督はどうしてこんな映画を作ったのでしょうか。

むしろゴジラが彼らすべてを焼き尽くしてくれればいいのに!

 

と思った時、気づきました。

 

「この映画は嫌悪すべき国・日本をゴジラが焼き尽くしに来てくれたという映画なのだ」

 

つまり共感するのはゴジラ自体であり、私自身がゴジラとなってこの映画に共鳴すべきでありました。

 

登場人物が全員嫌な人間(日本人と一人手を組もうとしているアメリカ人)なのは当然です。こんなにも嫌な人間ばかりがはびこっているからゴジラが来たのです。

政治家たちと自衛隊の攻撃が間抜けに見えるのは当然です。

この映画に愛も友情も存在しないのは当然です。

だからこそゴジラという神によって大切なものを失った日本人と象徴的な高層建築が立ち並ぶ都市が破壊されようとしたのです。

 

すべては謎でも奇妙でもなく庵野監督の計算どおりだったのです。

主人公とヒロインが嫌悪すべき存在なのも主要人物がすべてうんざりする人格なのも物語と行動に愛情のかけらもないことも共感できる登場人物がひとりもいないことも、それはゴジラに火炎で焼かれる存在価値であるのを示していました。

 

 

しかし真に庵野氏の計算はどうだったのでしょうか。

 この映画を観た日本人たちの評価はもっと奇妙なのではなかったのでしょうか。

 

冷血で間抜けだと見える日本人の代表たる政治家たちの主人公・矢口の「ヤシオリ作戦

」にやんやの喝采をあげ、素晴らしい映画だとほめたたえました。

むしろこの映画は庵野監督の痛烈な皮肉に息をのみ、自分たちはどうあるべきかをシンとして考えるものだったのです。

「おまえたちはこんなに間抜けで冷酷だ」と言われながら「面白い」と大喜びしている姿はまさに奇妙なものだったのではないでしょうか。

 

庵野監督は物凄い仕掛けの罠を作ったのではないかと思います。

表面上、とても楽しくて面白いと見える映画の中に自分たちを卑下・罵倒する毒針を仕掛けてきたのです。

思った通りに多くの日本人が罠にかかり監督の偉業を称えた。その実毒針が自分の体に刺さったままなのを気づかずに。

 

この映画は日本と日本人への嫌悪であふれた映画です。

外国での評価が低いのはそんな嫌悪感で作られた人間味のない愛のない映画を外国の人たちは良いと思えなかったからです。

その感覚は何と正常なことでしょう。

彼らは映画に愛と正義がないことをすぐに感じたのです。

だから『シン・ゴジラ』は外国で受けなかった。当然です。嫌悪でできた映画なのですから。

 

なのにもかかわらず当の日本人たちは「面白い面白い」と喜んでこれを見て受け入れ尊敬すらしている。

  

「不気味な国民」です。

 

残念なことに映画の中ではゴジラは日本を焼き尽くすことができませんでした。

しかし主人公自身もゴジラが死んでしまったことではないことを知っています。

 

日本はこれからもゴジラとともに、いつゴジラが復活するかと恐れながら生活するしかありません。

それも日本人にとっては福音とも言えるのかもしれません。

 

 

エヴァンゲリオン』を最初に思い出せばわかりやすかったのかもしれません。

あの主人公も底辺の人間などではなく結局父親が碇司令であるという身分の上での存在でした。

例えば『ガンダム』のアムロのようにマッドサイエンティストの父親を持つオタク少年とも『ヤマト』の古代進のような普通人とは違う特別な立ち位置でした。

多くの日本人が底辺の主人公より政治家三世の主人公に共感できるのも権威をなにより信じているからなのでしょう。

 

以前、外国の方の感想で「なぜ政治家ばかりが登場して普通の人間の行動や考えが表現されないのか」というのを読んだ時にぴんと来るべきでしたが、すぐに思いつかないのが私です。

 

政治家だけが日本を動かしていて、人民は言われるがまま動き回るだけ、それが日本。

ということをそのまま表している写実的な映画だったわけです。

民間から英雄は生まれない、そんな物語を易々と受け入れる。それが日本人なのです。

と、庵野秀明は描きました。

そして日本には家族愛も友情も恋人もない。

そのことを多くの人が嘆きもしない。やんやと褒め上げる。

 

そんな国・日本です。

 

ああ、ほんとうにゴジラが日本を焼き尽くす、そんな結末だったらよかったのにね。

 

 

 

 

ゴジラは永遠にきみ(日本)と共に在ります。