ガエル記

散策

「嫌なことは嫌と言う」ということを教育してほしい

ネットを見始めて世の中には様々な事件があることを知れるのは貴重なことなのですが、反面読んでいて非常にむかついたりイライラしたり「どうしてこんな風になるのかな」とぐったりすることも多々あります。というかそういうことだらけの気もします。

 

時にはそれが人命にかかわり人生を脅かすことにもなるのになぜか人が言えない言葉があります。

それが「嫌だ」ということばです。

 

この「人」という字を本当は「日本人」と書き換えるべきなのかもしれません。

これも実際に体験できるわけじゃないので人から聞いたことでしかありませんが、どうやら外国(どことも言いにくいですが主に欧米諸国でありますが)では「嫌なことは嫌」と言っているように聞き及んでいますが、この国日本の住人たちは「嫌な事でも嫌とは言わない」ことをむしろ美徳として生まれた時から教育され続けているようでそのために「空気を読む」ことができな人間を「KY」(もはや言っていないが)と称して軽蔑していたりします。

というのはこの「空気を読む」というのが「みんなが楽しい気持ち(プラス思考)になっているのを察していない」のほうに使うことはほぼ無く「みんながやばい状態(マイナス思考)になっているのを察して黙れよ。余計なこと言うな」のほうに使う事ばかりだからですね。

学校で誰かがしくじって先生の機嫌を損なって重い雰囲気になっている時にひとりだけふざけてしまうと「空気読めねーなあいつ」となるわけですが、先生が機嫌を損なったりしている方が間違っているわけではないでしょうか、本当は。

この先生が会社の上司であったり、お偉い政治家であったりする場合も同じくです。

 

本当は問題を直視して解決せねばならない時に事態が深刻化することを恐れてなんとかこの場をあやふやにしてしまいたい、という気持ちが日本人は強いように思えます。

先生や上司や政治家が難しい顔になってしまう時は逃げてしまうのではなくて皆で考えて解決しなければならないのに「なんとかあの方の怒りが静まるまで黙っていよう」という気持ちになりやすい日本人たちの中で少数声を出してしまうのを見て「KY」「黙っとれ」となってしまうことが良いことなのか。

 

抽象的にすぎるとなんだかよくわかりませんが例えば少し前に有名大学のアメフト部で監督・コーチから試合中に不正(敵選手への暴行プレー)を指示され実行した選手の話がありました。彼は「間違っている」と思いながらも実行してしまったのです。

その後問題になって彼は謝罪し弁明し真相が明るみに出る、という良い方向へ行ったのは幸いでしたが大学へ行くような優秀な男性ですら「嫌なことは嫌と言う」ことができなかったということなのですね。

もちろんまだ彼は若すぎてよく判らなかった、と言えますがこの事件が世の人々が知る問題にならなかったなら彼はそのままやり続けてしまったのかもしれないと思うと怖ろしくもあります。

 

また多くのいじめ問題も「嫌だと言えない」気質から引き起こされてしまうことも多いと思えます。

他人との協調性を何よりも大切にする日本社会、そのことを美徳とする感覚、しかし日本人も生まれた時から嫌だと言えないわけではなく成長するにつれ変えられているのです。

生まれて間もない時期に「いやいや期」という自我の発芽期がやってきます。親の言うなりだった赤ん坊が「それは嫌だ」と自己主張するようになるわけです。

それが成長するにつれ「嫌だ」という気持ちは抑え込まれていきます。

話し合い、相手との折り合いをつけるなどではなくただ自我を抑えろとなるわけです。

特に女性はよりその気質を求められます。

女性の美徳は人の意見を受け入れること優しくでありそれを「素直な性格だ」と褒められます。反抗的な態度をとる女性は「強情だ」として欠点とみなされてしまうのです。

 

特に親や教師、先輩や上司、などの目上の人への従順な態度を要求されます。これがそのまま恋人や夫に対しても素直に従うことを「女らしい良い性格」と評価されるわけです。

 

この性格を育成していくことは人生においてどのような事態を生むでしょうか。

いじめにあった時「悪いのは自分で素直に従うべきなのかな」

痴漢やレイプにあった時「抵抗してはいけない。おとなしくしていればやめてくれる」

セクハラやパワハラなどのあらゆるハラスメントに対して「反抗してもしかたない。誰かがなんとかしてくれる」

こうした思いを抱いてしまった、というネットでの告白文をいったいどのくらい読まされてきたでしょうか。

 

「悪いのはきみじゃない。悪いのは嫌なことをした人だ」

そうですとも。

でも私は「嫌なことは嫌と言う」ことを教育してこなかったこの日本社会を憎みます。

私自身はっきり「嫌だ」を叫べるような強い人間ではありませんでした。

でもそうした社会に背を向けて拒否反応をしてきた人生ではありました。

みんなと仲良くすることに幸せを見出すことは私には苦痛だったのです。

そのためにあまり得をすることはなかったのかもしれませんが小さく嫌だを続けてきたようには思えます。そしてそれでよかったと思っています。

 

ネットにあふれる嫌な出来事、怖ろしい体験の多くが「嫌だ」と言えないことから始まっている気がします。

 

この呪いはなんなのでしょう。

 

ただただ「悪いのはあいつだ」ではなく「嫌だ」と叫べ、と言ってほしいのです。

 

いきなり触られたら「さわるな」

嫌なことを言われたら「言うな」

命令されたら「命令するな」

 

心の中では嫌だと思っていたのに、という言葉をもう見たくないのです。

 

子供たちに人生の大切なことを話す機会があったら「きみが嫌だと思うことは嫌だと言うことだ」

と言ってほしいのです。

それが間違っていたら?という恐れを心配してもそれは結局誰にもわからないのです。

でも「心の中では嫌だと思っていたのに嫌だと言えなかった」という思いほど辛く悲しいことがあるでしょうか。

自分が間違っていたのなら仕方なくても自分はそう思っていたのに自分を出せないことほど無意味なことはないのです。

表に出さなければ誰にもそれは伝わらない。

考えていただけではだめなのです。

 

「嫌だ、と自分が思った時そのまま嫌だ、と言えるようになる」

そしてそれが間違いだったと知ればその時それを認め正すことができる人間になるべきではないでしょうか。

 

自分を抑えて空気を読んで嫌だと思っても黙ってやり過ごす、それは人生を破壊していきます。

 

そんな教育をし続けてきた社会は間違っています。

 

嫌だ、と言い放ちましょう。