ガエル記

散策

「タツノコプロ」自己犠牲礼賛の精神を謳い続けてきたアニメ

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わたしの子供時代にはアニメ作品数というのが少なかったせいもありましたし深夜枠を録画して、などというようなことはできないしとにかく直接観る、という世界でしたからアニメなら何でも見る、というのが基本でした。

ですから四の五の言わずに観るわけですが、その中でも次第に「これは、ちょっとなんだかな」と思うのが子供なりにあるわけです。

子供だからうまく説明はできなかったりするわけですが、なんだかあまり好きになれない気がする、というのを感じたりするわけです。

「面白くない」というのは子供ならすぐ感じますが、「面白くない」ではなく面白いとは思ってるし感動したり泣いたり笑ったりしていても「なんとなくな」というのがあるわけです。

そういうのが幾つも溜まってきたりするわけですが、後になってそれらを集めてみてみればそれは「タツノコプロ」というアニメ会社のものが多かったりしたわけでした。

 

これはまったく私が感じただけのことであります。でもなぜそう感じてしまったのでしょうか。

 

タツノコプロというアニメ会社は古い歴史があり有名な人気作品も数多くあります。

上で書いたようにアニメなら何でも見ていた、というような子供時代には勿論私もよく観てきたわけです。

みなしごハッチ」「マッハGoGoGo」「紅三四郎」「ガッチャマン」「いなかっぺ大将」「新造人間キャシャーン」「タイムボカン」「樫の木モック」「ハクション大魔王」「てんとう虫の歌」他にも一気には書けないほどありますし、観てきました。

アクション、SF、人情もの、ギャグなど様々なカテゴリの作品があって他のアニメ会社とは一味違うやや劇画タッチのキャラが独特です。

最初はこの独特のキャラデザインが嫌いだっただけか、とも思ったのですが大人になって観ているとそれほどキャラデが嫌ではないのですがやはり話には嫌悪感があるのです。

しかもものすごい作品数のその全部が同じ共通点があるということがあり得るでしょうか。

幾つか作品を見返してやっと気づいたことがありました。

ガッチャマン」は主人公たちが孤児であり「死んでもいい命」として「悪」と戦うという設定になっています。

キャシャーン」は二度ともとの人間には戻れない体になって戦います。

つまり「自己犠牲の精神」というものが子供向けアニメの中で大きく謳われているのです。

特に「ガッチャマン」は科学忍法火の鳥を使う時、ガッチャマンたちは強烈な熱に耐えながら戦うことを自ら選択し耐え忍ぶ、という演出になっていました。子供期、それを見るのがいつも怖ろしいのに必死で観ていたのを覚えています。

正義のためなら平和のためなら若者たちが激烈な熱に悶え苦しむのもやむなし、とすべきだったのでしょうか。子供たちはそんな姿に敬意を持たなければいけなかったのでしょうか。

 

タツノコプロの他の多くの作品を全部見返して確かめる気力と余裕はありませんがタイトルを追っていくとどれも確かに「我慢」とか「耐え忍ぶ」とかを描いた作品がたとえギャグ作品であっても思い出されます。

 

もちろん「我慢」「耐え忍ぶ」「自己犠牲」などと言う言葉はいかにも日本人が大好きな精神ばかりでそうしたことを作品のなかで描いたものは他になかったとは思いませんが「タツノコプロ」作品というのは特にその精神を根底に深く根差して作ってきた会社だったのではないでしょうか。

しかもこれは会社の揺るぎなきポリシーとしてむしろ美徳であると誇られていたのかもしれません。

しかし私はこうした「自己犠牲の精神」が基盤となっているアニメ作品に反発を抱き続けてきたように思えます。

 

次第にタツノコプロ作品は全盛期ほどの人気はなくなっていくのですが、それはそうした「我慢」「忍耐」「自己犠牲」を日本人が美徳としたくなくなってきたからではないのでしょうか。

しかし美徳とはしなくても自己犠牲は相変わらずしてる気がします。美徳ではないだけで。

現在はタツノコプロは「サイコパス」を製作していますが、私には相変わらず自己犠牲忍耐・我慢の精神はタツノコに宿り続けていると思われます。主人公を含めどうしてあそこまで自分を犠牲にして生きなければならないのか、それをかっこいいと評価支持するファンたちがやはりいるのか、私には不思議です。

 

このブレのない徹底した思想を持つ姿勢はある意味評価すべきなのでしょうか。

自己犠牲の精神、私は最も不気味な思想だと思うのです。