ガエル記

散策

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』ロバート・ゼメキス

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先日TV放送もされて再び人気を博している本作です。レビューを観ても大絶賛で「この映画を嫌いな人に会ったことがない」という文章を何度も見ました。加えてあの岡田斗司夫さんも本作の特集を配信されていて私も見たのですが「完璧な脚本によるめちゃくちゃ楽しい映画」という大興奮の賛辞でした。

こういう書き出しなので予想されるでしょうが、私は本作、大感激どころかまったく面白いと感じないのです。むしろいたるところ、端々に違和感反感を覚えてしまって嫌悪すら感じるのです。

いったい何故皆さんはここまでこの映画を好きになれるのか、とも思いますし「嫌いな人はひとりもいない」というのは本当なのかとも考えます。実際ここに一人いるのですが。

 

ネタバレですのでご注意を。

 

 

もちろん「タイムトラベル」という荒唐無稽な設定そのものに興味がなくまったく観たくないという人はいるでしょう。そういう方は解説かタイトルを見ただけで避けてしまい「嫌い」という以前の問題になってしまうのかもしれません。

実をいうと私も「タイムトラベル」作品には「身構えてしまう」のはあります。都合の良いように過去を作り直してしまう、という事ができるのならとは誰でも考えますが現実はそういかない。大切なもの、愛する人、を失ってしまった場合、あの時ああしていればこんなことにはならなかったのに、もしくは未来を見て自分が発明発見行動することで大儲けする名誉を得るなどなどを考えて楽しむ、という娯楽を私自身は楽しめないのです。

 

とはいえ、本作に対して私が反感を持つのは設定のタイムトラベルだけではないはずです。

私がどうしてこうも本作に入り込めないのか、少し考えて見ようと思います。

 

まず第一は映画世界を築くために作り手が選択した人間、物、時代、場所に共感を持てません。

これは岡田氏の解説を聞いてなるほどと思ったのですが日本の作品で言えば『ALWAYS 三丁目の夕日』のようなノスタルジーが(岡田氏によるとこちらが影響を受けた)本作のいわば魅力になっているのですが、アメリカのフィフティーズや日本のいわゆる「昭和は良かった」的礼賛に疑問を持つのです。

それはアメリカでも日本でも一部の人々には良くても影の部分を見ないことにするからこその良さ、に違いありません。

今回は『BTTF』についてなので日本は省略しますが本作はタイムトラベルという旅行者の目にすることで良いところだけを見て悪い部分は見なくても当たり前、という実に賢い方法で50年代を垣間見ることに成功しています。

上手い方法だとは思いますが私はそのやり方に抵抗を感じます。

 

物語の根底にあるのは勝ち組負け組という振り分けです。

主人公の家族はもともとその負け組側に存在していて父母兄姉皆が負け組の貧しさでゆえにかっこ悪いものとして描かれるのですが、マーティが過去を変えたことで家族は金持ちになり皆綺麗な容姿に変わってしまうのです。

一方かつて父母をいじめていた嫌な奴は書き換えられたことでマーティの家の使用人となっている、という転換になります。

タイムトラベルに事実の書き換え、は絶対にある行為です。そのためのタイムトラベルです。

しかし「その行為」が何に対してどう行われるかが作りてのセンスになってくるのですが「貧乏・かっこ悪い」=負け組が「金持ち・カッコいい」=勝ち組になり嫌な奴はその逆、という図式を選んだ本作のセンスはあまりにも低俗すぎますが、その選択の映画がこれほど受けて絶賛されているという現実は人々がいかに辛い人生を歩んでいるかの証明になるのかもしれません。

私自身さほど良い身分ではありませんが(と思いますが)この映画を観て楽しむ気にもならないのですが。

 

次に気になってしまうのは岡田氏からも解説を聞いた本作のタイムトラベルの創作者である通称ドクとデロリアンのことです。

ドクはあのマンハッタン計画の一員だったという設定なのです。つまり日本に原爆を投下した計画者のひとりであり、本作でもプルトニウムを使ってタイムトラベルをしているのです。

本作自体に原爆計画者だったということが押し出されているわけではないから気にする方がおかしい、と言われてもデロリアンプルトニウムを使用して起動することは何度も繰り返し説明されていますし、衣服には大きく原子力のマークが描かれています。

アメリカ人ならまだしも日本人でこの設定の映画がなにもなかったかのように無視して楽しんでいるのはあまりにも不思議です。

ここも「嫌なものは見なかったことにする」が働いているのでしょうか。しかし放射能を防護する服を着て主人公たちは行動しているのですが周囲の人々への影響はないのでしょうか。

放射能は見えません。しかし主人公たちが防護服を着ているということは影響があるということです。なにしろドクは原爆計画者のひとりなのですから。

原爆投下者のひとりが(フィクションとは言え)プルトニウムを使ってタイムトラベルしているのを「史上最高の映画だぜ」「こんな楽しい映画は他にない」「この映画を嫌うヤツがいるのか」と嬉々として観ているのは地獄絵を思わせます。

これはいったいどういうことなのでしょうか。

 

本作に登場する「黒人の描き方」にも嫌なものを感じます。

将来市長になるというウエイターや学校のダンスパーティのバンド、になんの文句がある?と言われるでしょうか。

もちろんそうでしょう。

しかし白人たちが学校で勉強したり遊んだりしている片方で黒人たちはカフェの掃除とダンスパーティのバンドで途中で麻薬をやっている、という描き方に好意を感じられないのです。

なぜか黒人は男ばかりで女はいないのですが、これには意味があるのでしょうか。

 

リビアのテロリストという設定も同じように嫌悪します。

 

コテコテのタイムトラベルもの。勝ち組と負け組の描写と転換。人種差別。白人の主人公と彼女と家族。

古き良き時代へのノスタルジーには嫌な部分は見せない。

原爆計画のひとりによるプルトニウムを使ったデロリアンをかっこいい~と賛辞する人々。

 

私には全編おぞましいものだけで作り上げた映画としか思えません。

 

しかしこれを最高の名作とまで言う人々の哀れさも無視してはいけないようにも思えます。

これを観て「自分もこうなりたい」と思う人々を見ないことにするわけにもいかないのです。