ガエル記

散策

擬人化ではなくそのものを

日本人は擬人化が好きでその歴史も古いと言います。

刀剣乱舞』『ヘタリア』『艦これ』『けもフレ』以前は『綿の国星』『それいけ!アンパンマン』など挙げていけばきりがないほどでしょう。

物や動物だけならまだしも国や県、さらには字や細胞などたぶん気分や概念などもありそうですね。

 

私もそのいくつかは好きですし、擬人化によってそれまで興味がなかったものや嫌いだったものまで興味を持たせ好きになれるのは良いことだと思います。

 

だけどちょっとだけ考えてもみましょう。

他の国の文化にもおもちゃや車やスポンジなどの物を擬人化したものは多々ありますが、日本の完全に「人」化したものに比べるとそのままの形を留めているように思えるのです。

私自身日本人なので「モノ」そのものより「人間」に変化した形により親近感を持つ感覚は共感できます。

 

「刀」そのものをステキというよりそれを美男子に思い描いたほうが判りやすく恋できるわけです。

でもそれというのは結局人間しか価値観を見出せない、恋できない許容量を示しているようにも思えます。

 

よく日本人は「車にも名前をつけて愛情を持つ」というのですが、その割には車そのものを愛しているという映画はあまり見かけない気がします。

アメリカ映画で言えば『クリスティーン』や『カーズ』『グラントリノ』もそうでしょうか。

美形男子女子に変化したから好きになる、のではなくそのものを好きになる、という感覚が日本人は薄いのでしょうか。

動物の擬人化もより人間に近い形で耳や尻尾が生えているだけ、くらいの擬人化が主流なのですね。

獣そのものの形を愛する派から見れば低俗であり無粋であり修行が足りん、というところでしょうか。

つまり物そのもの動物そのもの概念そのものを愛せず、擬人化することによってやっと好きになれるのはそれらへの冒涜、ともいえるのです。

 

しかしまあ、最初に戻れば興味を持てない人々に関心を持たせるには擬人化という手立てで「なるほどそう考えればイケる気がするわー」という鈍感な感性を奮い立たせるしかないのかもしれません。

 

人間という形に変えるのではなくそのものたちにはそのものたちの誇りがあるのです。

擬人化はそれを穢しているのです。

 

という思考を巡らせながらやっぱり擬人化は楽しいねとも思う日本人的自分ではありました。