ガエル記

散策

『ダークナイト』クリストファー・ノーラン

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昨日に引き続き『ダークナイト』について。

この映画が傑作なのは間違いないと思います。

胸のすくような壮絶なアクションシーンだけに注目しても別格です。そして人間の業、善と悪を象徴的に描いた寓話として最高に面白い。

そのうえで昨日書いた「性差別主義者」の作品だという事実も共存します。

物語が有意義で面白いものであることと性差別ではない作品であることは違うベクトルであるのでしょう。

 

まずはいかに含みのある面白い作品であるというベクトルから書いてみましょう。

私はこの映画作品はひとりの人間(そしてそれはたぶん男性)の心を描いたものではないかと考えます。

この映画は事実ではなく男性の心の情景を写し取ったもの、妄想なのです。

と言えば「映画なんだから当たり前じゃないか」と言われてしまうでしょう。

しかし物語作品は現実の世界を写し取ったものである場合と一人の心象世界を現実の世界に置き換えて作り上げていったものがあると思います。

例えば「機動戦士ガンダム」は前者であり「エヴァンゲリオン」は後者です。「エヴァンゲリオン」現実に起きていることではなく一人の人間の心の中で妄想していることをアニメ作品として描いたものであり登場人物は(シンジもアスカもエヴァも)一人の人間の分身です。対して「ガンダム」は現実(未来社会という現実)を構築していったものです。

 

では『ダークナイト』は?

 

この作品もすべて心象風景なのです。一人の男性の心をこれ以上ないほどリアルに再現した映画なのです。

つまりバットマンもジョーカーもレイチェルもハービー・デントも一人の人間の分身であり、ゴッサムシティ自体も心の中にあるわけです。

もともとマンガなんだし当たり前のようですが、他の多くの映画はそうした作りものではない、本当の世界を描く「リアリティ」を目指すのに対し、『ダークナイト』では心象風景であるということを目指して描いていくところに違いが生まれてきます。

そしてこの方向性が逆にバットマンの扮装やジョーカーの化粧そして現実離れしたバイクや車をリアルに感じさせていくのです。それが自分の心の中に存在すると確信させられていくからです。

本作ですぐ殺してしまえるはずのジョーカーは殺されません。それは男の心の中にいるジョーカーを殺すことができないからです。男は自分の心のジョーカーを殺したくはないのです。バットマンを殺したくないように。

そして彼はトゥーフェースになるのです。

 

「俺を轢き殺せ」とジョーカーが叫びバットマンは彼をバイクで轢き殺すことができるはずですが、心の中のジョーカーは殺せないし死なないのです。

レイチェルもまた男性の心の中の女性でしかありません。なので彼女は突然変なことはしないし言わないのです。

レイチェルはデントにもバットマンにも甘い顔を見せますが二人の男がそれを許容しているのは二人が実は一人の男性だからです。

そしてレイチェル自身もその男性の分身でしかないのでその他の男へ心を移すことはないわけです。そして自分の役割として死を容易く受け入れてくれます。ふたりを罵ることもなく。

 

そしてここに先に言ったベクトルの齟齬が生まれてきます。

ひとりの男の心象風景では女性は男性のために生きています。彼女への愛もその男のプライドを満たすために存在します。

そして彼女は男のために死ぬことになんの不満もなく「愛している」と言いながら死んでいってくれるのです。

これを観て男性はその美しさに涙し、女性は疑問を持つでしょう。持たないという女性は「自分はこの女ではない」と思うからか、愛する男性の犠牲になるのならかまわない、という倒錯した意識の持ち主だと思います。

この映画には「嫌な女」が登場しません。この妄想者は「嫌な女」が嫌いなのです。

レイチェルは昔のヒーローものに登場する美人なだけのバカ女ではないし、セクシーガールでもありません。知的で品のある素晴らしい女性、二人の優秀な男性から愛される価値のある女性として描かれています。

彼女ならバットマンが命がけで愛するにふさわしい、そんな評価は男性が下したものであって女性にとっては何の意味もないものです。

「ふざけんな、てめえらだけで勝手にやってろ」とレイチェルは叫んで唾を吐いてもよかったのですが彼女は美しく死んでいきました。

満足ですね?男性たち?

 

つまりそういうことです。

 

心の中の善と悪の戦い。

男性の夢の世界。

悪がはびこり絶えることのない「ゴッサムシティ」=「馬鹿者の住む町」の中であなたは正義のために身を犠牲にして戦い、ジョーカーとなって破壊を続ける。

(これは現実の社会の写し鏡なのだ。バットマンとジョーカーもまた現実をシンボライズしたものだ)

女性はあなたを愛し、あなたのために死ぬ。

そしてあなたはトゥーフェースとなる。

 

なんという素晴らしい男の夢の世界でしょう。

その心象風景をここまで再現できた映画は他にまたとない。優れた作品です。

 

どちらのベクトルで観るか。

男性の多くは男性の夢の再現として賛辞を送ります。時々違和感を持つ男性もいるようで、その方々は同じベクトルを持てなかったのです。

女性の多くは女性と男性が共存する世界、を観ようとしたのに『ダークナイト』には女性が一人も出てこない。

出てきた女性=レイチェルは現実の女性ではないのです。それは男性の夢の女性だから。

多くの男性は

「レイチェルは立派な女性として描かれているなんの不満・疑問があるのだ?」

「これまでのお色気が売りの馬鹿女じゃないぞ」

と思ってこの映画の女性描写に感心しているのでしょうが、まったくそこが違うことに気づいていない。

 

 まだしもバットマンが馬鹿女を助けに行く方がうなづける。彼女は結局男たちの評価を上げるための「都合の良い女」としてしか登場させられなかった気の毒な女性の役割です。

馬鹿女を愛してしまったっていいじゃないですか。優秀だから愛したのですか。

 

そういうところから亀裂が生まれます。

 

あるベクトルで観れば優れた作品です。

しかし別の視点に立てば性差別主義者でしかありません。

 

これ以上ないほどの技術で創造された映画です。

バットマンもジョーカーもトゥーフェースも語られます。

が、レイチェルは語られません。

 

男たちがどんな思いで悪を成し正義を成すのかが描かれますが、

女の思いは描かれないのです。

しかも描かれているかのように巧妙に仕組まれています。

それを含めても卓越した映画作品だと言えるのです。