ガエル記

散策

沼田真佑著『影裏』を読み解いていきます。その3

続けます。

 

本書『影裏』実質90ぺーじほどのごく短い小説なのですが読んでいくには時間がかかるのが判ってきます。

多くの読者が前と繋がらなくなってしまい「あれ?」となって前に戻って読み直す、男なのか女なのかよく判らなくなってもう一度確かめてしまう、などを繰り返してしまうようです。

すんなり読めてしまえる小説ではないのですね。

私自身ちらりと見て不思議な感覚になり二度三度と読み返しました。それでもまだちゃんと読みこんだ気にはなっていません。

 

とりあえずは読んでしまえるのだけど奇妙な描写や表現がここかしこにあってそれらにいちいち引っかかってしまうのです。それらは「まっとうな文章」というにはちょっとずれている気がするのですね。

だから「一見うまいようで実は文章が下手なのか?」「かっこつけているような表現だけどぎくしゃくしているように思える」というように感じてしまうのではないでしょうか。

しかしそれらは作者が「なにか」を伝えたいために様々な工夫をしているためなのではないか、と私には感じられました。

そういったひとつひとつを書いていきたいとも思っています。

 

そしてまずこの小説の世界は現実の世界のようでいて実は異世界なのではないかとも思うのです。

異世界というより少し軸の違う世界、パラレルワールドのひとつと言うべきでしょうか。

それを感じたのは本書35ページの後半の文章です。

 

あのときの和哉が妹のように自分の家族の誰彼に、こんな内容のメールを送っていたらどうなっただろう。二人は結婚したんじゃないだろうか。

 

え?とここでなった人は多いのではないでしょうか。

たぶん読者はほとんど皆、一人称「わたし」でありながらも「わたし」という語り手を男性だと思って読んできたはずです。

その「男性」である「わたし」と和哉という男性が同性愛関係であったとしても「二人は結婚したんじゃないだろうか」とさらりと書いてしまうのは現実今の日本社会ではありえないことです。

いや法的な結婚という意味でなくても、と言っても家族にメールを送って同性婚する、ということをここまでさらりと書いてしまうのは現状の日本社会では不思議なほどに冷静な書き方です。

時間が現在ではなく未来、とするには東北大震災前後を舞台にしていることが枷になります。

男性に同性婚すると家族にメールすることをここまでさらりと書いてしまえるのはパラレルワールドなのではないかと思ったわけです。

 

純文学なのにいきなりパラレルワールドなんて、というのであれば「わたし」が何者なのかを考えていかねばなりません。

 

なぜ私たちは「わたし」を男性と思って読んできたのでしょうか。読み落としがあったら教えて欲しいのですがここまで「わたし」は「私は男性です」という表現はしていないんですね。尚且つ最後まで「わたし」は「私は男性だ」とは書いていません。

それなのに皆「わたし」を男性として読んできました。

なぜなのか。

それは日本語記述としての男性言葉によるものですね。

地の文は簡素でそっけなくて男性的です。女性ならば、少なくとも小説家がこの一人称は女性です、と表現したかったらあえてもっと女性的な文章を選んでしまうはずです。

乱暴で粗野な女性でもそれならそれでより女性的な乱暴な言葉になるのです。例えば、

 

あーゆーのってふざけんなって思っちまうよ、むかつく。

 

こんなかんじでしょうか。男言葉を使い乱暴でありながら女性的です。

 

本書の一人称の文章は静謐で端正で簡潔という風情が男性的と感じられるのでなんとなく読者は「わたし」は男性と感じるのでしょう。作者が男性であるのも一人称であるため関係してくるかもしれません。が一方「男としてわたしは」というような男を強調する説明はありませんし、「早くお嫁さんをもらったほうがいいぞ」などというような周囲から「わたし」が男性である説明もないのですね。

セクシーな女性を眺め性的な感想を持つ、という描写もないのは「わたし」が男性同性愛者だから、と読者が思っているからですが、女性が(男性でもいいですが)「わたし」に対して「今野さんみたいな人、タイプだわ」とアプローチしたり逆に「あの人ってダサい男ね」というようなこともない。

つまり「わたし」が男性なのか、女性なのかということを本人も周囲も誰も発言していないのです。

「わたし」のセリフは普通にいう男言葉ですが、現代の女性が使ったとしても特別奇妙には思えない程度のものですし、また男言葉を多用する女性がいるのもよくあることです。

私が見つけた「わたし」が男性だと証拠立てるものは本書40ページの日浅のセリフ「今野秋一の挙式は手を抜くなって、ブライダル担当のやつらに触れ込んどくっけ」というものだけです。

「わたし」は「今野秋一」という名前であるようです。普通の日本人感覚で男性名として読めます。

しかしこれにはルビが振られていません。「今野」は「こんの」でしょうけど、「秋一」は「あきかず」?「しゅういち」?「あきひと」?

人名で検索すると次のようなことが書かれています。

https://mnamae.jp/c/4e00.html?ln=

「男の子に多く使われる漢字です。」

とはいえ女性名に使われないこともないでしょう。

ここに書かれていることから男性名なら他にもいろいろと読めそうです。

女性名として読むのなら「しゅうか」「あきひ」などかなり珍しい読み方になってしまいますが、絶対あり得ない、ということはないと思えます。実際日本の人名は驚くようなものが多いからです。

もしかしたら「わたし」=「今野秋一」は女性なのかもしれません。

 

とすれば女性である「今野」=「わたし」は男性だった副島和哉と長く同棲し結婚したかもしれないほどだったのに別れ、その後和哉は女性になる手術をした、ということになりパラレルワールドになる必要はありません。

 

今野秋一はその後、岩手で日浅と出会い釣りや酒を楽しむけど彼とも別れてしまう。という物語になっていくわけです。

ストレートさんたち、一般的にはこちらのほうが呑み込みやすい話かもしれません。

 

とはいえ、映画化決定で今野秋一は有名な男性俳優が演じる予定なんですが、と言われてしまうと苦笑いです。

もしかしてオチは「実は・・・」ということですか?

 

いやいや、すみません。冗談です。

 

問題はそこではないのです。

 

芥川賞受賞した本書はそこまで神経をくばった文章だということなのです。

 

私たちは文章で男言葉、女言葉を書き分け、読み分けてしまっています。

また表現でもこれは男だ女だと決めつけています。

釣りをする、仕事を一途にやっている、トイレでスーツ姿と眼鏡を確認している、そんなことですべて男性だと思っています。

大学時代にゼミでインドシナ難民を取材する、色恋やイケメンアイドルにきゃあきゃあしていない、それは男だと思っているのです。

 

今野秋一が男性か女性か、今のところ私は見つけていません。

読み落としがないかどうか、さらに読み返してみるつもりですがもし「これは男性の表現では?」というのがあれば教えてください。

 

そしてまだまだ書き切れていません。

 

これも少し書いておきましょう。

本書にはとにかく樹木や草花や魚の名前が幾種類も登場します。読み飛ばしてしまえばそれまでですが、ここまで出てくると逆に気になってしまいとりあえずそれを検索することにしました。

その1その2でやっています。

これは本当にたくさんあるので少しずつやらないとそれだけでめげてしまいそうですので今日も少し。

f:id:gaerial:20191010051743j:plain鳶(とび)

 

f:id:gaerial:20191010051805j:plain鴉(からす)

 

鳶やカラスがどうしたんだって感じですが、一人称「わたし」(今野)は岩手で知り合った釣り仲間、日浅を特別な存在だと感じている、という説明に現れます。

これらも後日書いていきたいですね。