少し前、「昭和は良かった」とやたら昭和を良い時代だったと懐かしむ風潮がありました。
私は昭和38年生まれなので思い切り昭和時代に成長期を過ごしたのでどっぷり昭和人間です。平成という時代は次の時代という感慨しかないわけですが「昭和」という時代を微塵も良い時代だったと思ったことがないし、「懐かしむ」というような心境にはこれからもなれそうにありません。
といっても私自身が不幸な幼少期を送ったわけではなく、私自身は非常に安定した幸福な少女時代を過ごした、と思っています。
贅沢ではありませんが飢えたことはありませんし、虐待や差別体験をされた記憶をもないからということです。あの時代のごく平凡な生活で育ちました。
この番組で取り上げられる東京でもなく農村でもなく地方都市というより地方の町といったほうがふさわしい感じですがそんな場所だったので極端な貧富も感じなかったのでしょう。
それならいいじゃないか、と言えそうですが「昭和は良かった」と言うにはあまりにも子供にとって酷く怖ろしい事件がありすぎたのです。
私は決してニュースなどを熱心に観ていた子供ではありませんでした。興味があるのはアニメと小説だけという毎日でしたがそんな子供の耳にも入ってくるぞっとするニュースは立て続けにありました。
自分が住む地方の町にはないことでしたが光化学スモッグ、水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくなどの言葉に怯えました。
空気や水の汚染、水銀中毒やカドミウム中毒などの表記に震えました。
そう言ったことから生まれた「ヘドラ」は子供たちに強い印象を与えほとんどの子供たちがあの頃ヘドラを憑りつかれたかのように描いていたように思えます。
私の住む町は綺麗な空気と水に恵まれていたのではないかと思うのですが、それでも自分たちの住む日本と言う国の空気と水は汚染され子供たちが次々と病気になって死んでいく、というイメージから逃れられませんでした。
テレビ放送の多くのアニメでもそういった公害をテーマにしたものが作られていました。アニメにどっぷりだった私にはそうしたものは強烈な印象があり「悪い大人が自然を破壊していく」という怒りと不安に責められ続けていました。
なので16歳の少女グレタ・トゥーンベリさんが大人たちを怒鳴りつけた気持ちはわがことのように判ります。少女だった時の私に彼女ほどの行動力があれば同じことを言ったはずなのです。
前置きが長くなりましたが、このTV番組タイトルの「破壊と創造」の「創造」に対するイメージはあまり残らず「破壊」=「自然破壊」こそが戦後の日本がやってきたこととしてイメージされてしまいます。
もちろん1963年生まれの私には1964年は記憶に残っているはずはありません。が、この番組で描かれたことが私の「昭和」のイメージです。
この番組を見て「昭和は良かった」と思える人がいるのでしょうか。
昭和時代の初頭は私にはイメージすらできませんが、かなり格差が激しい時代であったろうと思えます。
次には戦争が始まり、敗戦後の貧苦の時代が続きます。これも想像しかできませんが多くの事が語られていてその凄惨さを懐かしむことはできないはずです。
この番組の時期からやっと私が共感できる昭和となってきます。東京に住んだことはありませんが、テレビを見ていれば自然と東京の情報が語られます。
ごみごみとした群衆、満員電車の気持ち悪さ、そうしたことだけなら地方に住むものには関係ないこととして気にせずにおけますが、公害による空気や水の汚染、そのために生じる怖ろしい病気が子供たちをはじめ人間の体や精神を蝕んでいくのを知るのは苦痛いた。
私にとっての「昭和」はそれなしに、というよりもそれ自体が核となっていて「私が思う昭和」を絵に描くとしたら最もふさわしいのは「ヘドラの絵」になるのです。
昭和という時代はごみが浮かんだ川、スモッグに包まれた都市のビル群そして公害病で苦しむ 人々の姿が先に浮かびます。
そうしたことを無視して「昭和は良い時代だった」と言えるわけがありません。
それらを忘れて懐かしめる人たちはその記憶をどうしたのでしょうか。あまりにも怖ろしくて削除してしまったのでしょうか。
昭和時代、高度経済成長と言う時代はヘドラの成長の時代でもありました。
番組で池田隼人総理大臣という人物が登場します。私にはまったく記憶にない人ですがその日本の「高度経済成長」を推し進めた人物のようです。
この番組の中で彼は「貧しい人に寄り添えと言われるが寄り添っていたら日本は先進国になれないのです」と言っています。
「先進国」とはなんでしょう。
たぶんそのチケットを手に入れるために魂を売り渡してしまったのでしょうね。
魂を売り払った日本と言う国は一時期「先進国」とやらになれたようですが、再び今その座から落ちてしまったようです。
そして魂はなくなったまま現在鬼畜のようになって「先進国」にしがみつこうとあがいています。
この番組に登場した孤立した子供たちは今また増加して問題となり、高度成長するために歪み切った労働時間は今の若者たちを苦しめ更に収入は低下し以前はできた結婚や家を建てる事はもう若者たちの手には届かないものになってしまいました。
出産率は低下し続け日本はすでに老境に入ってしまいました。
政治家たちはやせ細った国民から少しでも多くの汁を吸おうとたかり続けていて国民にはもう吸われる血液は残っていないのです。
どうしてこんな道を日本と言う国は選んでしまったのでしょうか。
「高度経済成長」して「先進国」を目指したりせず、緩やかに生活していくことを望まなかったツケはこれからの子供たちが支払わなければなりません。
昔あれほど憎んだ大人たちに私たちはなってしまいました。
小松左京さんは「日本人はきっとまたやり直してくれる」と期待されていたと聞きます。
果たしてそんなことができるのでしょうか。
小松左京氏が書いたように「日本沈没」してしまうように思えてなりません。
それともやっぱり「なんもせんほうがええ」のでしょうか。
この番組を見ていると日本人は自分たちが選んだ道を辿るべくして辿ってきたように思えます。
スポーツでたまさか勝利するとそれを持ち上げ過ぎ去るとすべて忘れてしまう。
今現在も同じことが繰り返されています。
そしてオリンピックを再び行おうとしています。
かつての東京オリンピックでの盛り上がりをもう一度、という事らしい。「復興五輪」という奇妙な言葉が作られていますが、この復興は東北大震災にあてたものではなく日本の名誉復興なのでしょうけど、世界のだれもそんなことはもう思わないはずです。
かつてのオリンピックの時も「その金を別の必要なところに使うべきだ」という声はあったのですね。
今もまた日本中の多くの人がそう思っていることでしょう。
東北大震災の傷はまだ癒えておらず、さらなる被災が立て続けに起きているのに国は見ないふりをしてオリンピックをやろうとしています。
子供たちの貧困・虐待問題の解決に注ぎ込むべき財源は政治家や財産家の私腹をさらに太らせるためにのみ使われていきます。
あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」問題は日本人の芸術に対する教育の低さを露呈してしまいました。
あまりにもこの国は知性と精神が低すぎるのです。かつて日本の精神年齢は12歳と言われましたが、さほど成長したとは言えません。むしろ後退したのではないかとすら思えます。
「日本沈没」は物理的なことである可能性もあるのですが、精神の比喩でもあるでしょう。
東洋の魔女と呼ばれた女子バレーボール選手たちへの脅迫の話など昨今と全く変わっていものを感じます。
政治運動をする若者などは減少してしまった反面、テロリストは存在し続けているのにはうんざりです。
さてこの番組、「東京ブラックホール」とタイトルされ、地方民としてはこんなブラックホールに吸い込まれたくないわ、とこれだけは優越を感じさせてもらいたいものですが、いやいやブラックホールはそんなあまっちょろいものではありませんから。
東京ブラックホールは地方をすべて飲み込み暗黒面へと誘うことでしょう。
1964年に東京オリンピックは開催されました。それは日本の上昇を象徴していました。
2020年に再び東京オリンピックが開催されます。それは日本の何を象徴するのでしょうか。
不吉な文字が頭をかすめます。