ガエル記

散策

肩書より個人でいたい

 

この「自身おばさん」発言、さらに「自分でババア発言」というのはどういう風に考えたものでしょうか。

確かに話の流れで「自分自身おばさんなんだから・・・」とかいう事を絶対にしない!とは言い切れませんが私自身は自分で自分をおばさん・ババア発言することには凄く抵抗があります。

 

ここで言われているように「おばさんの魅力も力量もないくせに」というように「おばさん」=「ステキな素晴らしい価値を持つ存在」として言うことも可能で「その域に達していない若い女が名乗るには百年早いわ」とする向きもあるのですが、私自身が自分をそう名乗りたくないわけはそこではない気はするのですね。

 

 

例えば今現在はどうなのか見ないので知りませんが、テレビ放送でリポーターが町や村であった見知らぬ男性女性に「おじさん」「おばさん」と呼びかけるのは「いささかまずい」と判断するのか、「お父さん」「お母さん」などと呼びかけるのが通常になっていて何故赤の他人に「父さん」「母さん」と呼びかけるのか、謎すぎて理解不能になっていたのですが、そうした「名前でなく一種の肩書で呼ぶ」ことが日本の流儀、として相変わらずまかり通っている、ためなのだろうとは思います。

 

他に「奥さん」「ご主人」「社長」「お姉さん」「お兄さん」「彼氏」「彼女」こういうのを呼びかけとして用いてしまうわけですね。

名前という個人ではなく肩書で呼ぶことで集団の一人になってしまうわけです。

ではまだ名前も知らない人に呼びかける時はどうするのか、というのも皆が考えていけばまたそれなりに違う言葉が生まれるのですが、気持ち的にそういう適当さで落ち着くのでそのままになってしまっているのではないでしょうか。

 

よく問題になる「じゃあ、おばさんやババアって何歳からだよ」というようなことではなく何歳であっても自分を肩書で呼びたいのか名前を持つ個人でありたいのか、の差のように思えます。

 

日本は名前を気楽に呼び合わないから、という文句もありますが逆に女性が未婚でも既婚でもさらに男女どちらでも名前に「さん」をつければ問題ない、というのは「ミスター」「ミス」「ミセス」で悩むより良い風習で、これだけは世界に誇ってもいいのではないでしょうか。

 

しかしそれはいいですが、問題は「おじさん」「おばさん」意識の強さ、ということでしたね。

これを「良い価値」とするのか「劣化」とするのか。

それともとにかくそういう呼び方が嫌なのだ、というのが私の本音です。