最近こんなに夢中になって映画を観たことがない、というほど食らいついてみてしまいました。
監督自身の体験をもとに映画化したという作品なのですが、それだけに現実をざっくりと切り取って見せられているような生々しさがあります。
それはもっとうまい方法があるのではないか、もっと洗練された技術を用いるべきではないか、と思わせてしまうほど荒々しい刃物の跡を感じさせてしまうえぐられ方なのですが、それだけに監督自身の体験や思いを感じさせられてしまいます。
この映画の感想を書く場合、ほとんどが現実にある北朝鮮と日本との差異や関係について「怖ろしい」「むなしい」とやるせなさと恐怖を連ねてしまうものでしょうがそれはもう作品自体が語っていますのでここでは私なりの感想を書いてみましょう。
私はSF好きで特にディストピアものは怖ろしくてたまらないのにどうしても見てしまう読んでしまうというクチなのですが、その中でもこの『かぞくのくに』は最高峰の作品だと思います。
そう遠くない将来、北朝鮮がこの映画に描かれているような国策を捨て去ってしまうことは在り得るでしょう。
その時、このような映画はもっとたくさん製作され物語として楽しめるようになるのかもしれません。
「考えて実行する」「自由を求める」それは人間にとって当たり前であり尊厳として何られるべきものですが、小さな国が大きな力を持つために国民をすべて国のためだけに存在させるにはそれらを封じ込めてしまうことが最良の選択だったのでしょう。
事実、人間の権利を奪うことである種の国家が成立してきたのです。
本作ほどのディストピア作品が他にあるのでしょうか。
ジョージ・オーウェルの名作『1941』というフィクションですらもこのような恐怖感はありませんでした。
それはそうでしょう。これは一人の人間が考えた作品ではなくこれまで北朝鮮に存在した数えきれないほど人間が作り上げた恐怖そのものなのですから。
どんな想像力よりも現実の人間が行う恐怖は底知れないものなのです。
本作ほど意味不明の不可解なシュールレアリズム作品はないでしょう。
何も知らない人間が観たら「いったいこの登場人物たちはなにに怯えているのか。どうして戦わないのか」と訝しみあきれ果ててしまうに違いありません。
『不思議の国のアリス』でさえこんな不条理はないのです。
究極の不条理映画、それが本作です。
ここに出てくる家族ほど強い家族愛を持った人々はいないでしょう。
それなのに彼らは家族を見捨てるしかないのです。
それは「仕方ない」ことであり諦めるしかできないのです。
こんな作品を考えて描けるでしょうか。
監督へのインタビュー記事も読みましたが、この作品のソンホは監督自身の3人の兄を一人にまとめて造形したという話でした。
そして現実はもっと何も言えない状態の中で進んでいったということです。
映画の中でソンホは父親に「なにもわかるわけがない」と一度だけ感情を爆発させますが現実ではそれすらなく黙ったままであり、ひとりの兄はソンホよりもっと寡黙だったそうです。ソンホよりってそれはもう黙ったままだったとしか言えないではありませんか。また一人の兄はソンホを演じた井浦新さんのイメージにそっくりだったという言葉に監督の気持ちを感じます。
本作のヒロイン・リエは自分の感情を率直に見せる女性です。
北朝鮮からきた兄の監視役にどなりつけ、どうすることもできない兄にもどなりつけます。
事実はどちらもできなかったからこそ、監督は自分の分身である彼女に自分の言いたかった言葉を叫ばせたのです。
『かぞくのくに』
不思議なタイトルです。
ソンホが帰ってきた日本に家族がいるように彼にはもう北朝鮮に家族がいるわけです。
ひらがななのも不思議です。
日本を意味しているのか、とも思えます。
北朝鮮・韓国・日本という関係は巨大な国家・中国の脇に存在し長い歴史の上で交流してきて家族のような関係でもあるはずですがその歴史は簡単に辛苦と言うだけではすまない過酷さを伴っています。
いつかほんとうに『家族の国』と言える日がくるのでしょうか。
ラストのソンホと リエの表情はあきらめでしょうか。
今現在はこの映画が作られた時期よりも進んで状況の変化もあります。
そのせいかふたりが心の奥で「いつか」という思いを持っているように感じてしまいました。
朝鮮の人たちの感情表現は激しくて心を揺さぶられます。
日本人は感情を抑えようとしますが、時にこの感情表現に惹きつけられます。