ガエル記

散策

良い爺さん悪い爺さん

先日ある動画を見てそれにコメントをしているツイートを見かけました。

それは日本の街中で女性が男性から殴られ蹴られているのだが通りすがりの人々が何も反応していない、というものでした。怖ろしい動画に多くのコメントが付されていました。

 

そこには

「ひどい。なぜ誰も助けないのだ」

というものもあったのですが

「状況が判らなければ助けられない。本当は女の方が悪いのかもしれないだろう」

という意見がかなりあるのが気になりました。事実、その動画内でも助けが入らないのはそういった思考があるように思えてなりません。

 

確かにどちらが悪いのか、はわかりません。

本当に女の方が悪人なのかもしれません。

しかし事実目の前で暴力を受けている人がいればそれが女性でなくてもひとまず暴力を受けないように二人を引き離すのが当然だと私は思います。

無論目の前で暴行を見て自分の力では止められない、という恐怖感を持つことは理解できます。その場合は警察を呼ぶということだってできるわけです。

 

が、とりあえずここでは実際に被害を受けるわけでもないコメント欄を問題にします。コメント欄ならどんな勝手なことだって書けてしまうではありませんか。

 

その上でも「飛び込んで助けてやるぜ」という言葉を書きこむことすら「良いカッコしい」ではなくむしろ「間抜けな行動をとる奴」と思われてしまうという考えを持ってしまうということなのでしょうか。

「浅知恵だな、女が悪者かもしれないだろwww」

と言われることへの回避と言えそうです。

 

適当すぎるかもしれませんが日本人、特に日本の男性はこういう思考をする人が多いように思えてなりません。

つまり

「良い人なら助けるが、悪い人を助けてはいけない」

という判断です。

悪い人を助けるのはむしろ「許されないこと」だと信じているようです。

例えか弱そうな女性であってもその女性が「良い人か、悪い人か」立証されてからしか助けられない、という基準が徹底されていてその法則を守らない者は最も愚か者であるという絶対的な真理があるかのようです。

この真理があればたとえか弱き女性が目の前で殴られていても

「どちらが良い人で悪い人か証明されなければ手を出すわけにいかないのだ」

ということになります。

例えそれで女性が殴り殺されてしまったとしても

「自分が善人だと証明できない形で殴られた女性に落ち度がある」

という絶対的な自己への基盤があるので自責の念に駆られることもないのです。

 

いったいこの思想はどこから学んだものなのでしょう。

「弱きを助け強きを挫く」

よりも

「良きを助け悪きを挫く」

の信念が強くなったのは何故なのでしょうか。

 

まずは「弱きを助け強きを挫く」を検索すると「任侠の気風」と出てきました。

どうやら私は任侠の世界に生きてきたようです。

以前はよくこの言葉を聞いたものですが、今ではすっかり聞かなくなってしまいました。

 

任侠の気風なのであれば確かに消滅してしまっても仕方ないのかもしれませんがこの言葉に関しては賛成したいと思います。

 

 また一方、私が幼い時読んだ昔話は「良い人」と「悪い人」の比較をする話が多かったと記憶します。

そして「良い人は宝物をもらい、悪い人は酷い目にあう」という結末を与えられていました。

 

「花咲か爺さん」だとか「舌切り雀」だとか「こぶとり爺さん」日本産の話だけでなく「シンデレラ」の良い娘と悪い姉たち、イソップの「働き者のアリと怠け者のキリギリス」など日本でもてはやされた外国の話もまた「良い人と悪い人」の比較が多いように思えます。

そういった比較のない外国の物語はたくさんあるのですが、どういうものか日本でよく読まれるのは「良い人と悪い人」の比較の話なのです。

 

つまりこれは幼い時から「良い人は救われ悪い人は救われない」という刷り込みを常に続けてられてきた、ということなのではありませんか。

女性よりも男性のほうが余計素直にその概念を思考回路に組み込んでしまったのではないでしょうか。

なので例え

「か弱き女性が強そうな男性に殴られていても」

「どちらが良い人で悪い人か、証明されなければ助けるわけにはいかない」

という論理を出してしまうのではないのでしょうか。

 

「弱きを助け強きを挫く」

にはその判断基準はありません。目の前で弱い方を助ければいいのです。

むろん助けた後でその人が実は悪者だったらその時点で再び判断すればいいのです。

しかし

「良きは助け悪きは挫く」

と考え続ける限り、目の前の暴力を抑えようという思考は発生しないのです。

どちらが良きか悪しきか決められないからです。

証明するのには時間がかかります。

よって殴られた方が死んでから

「助ければよかった」

となりますが、

「良い人だと証明できない人がいけないのだ」

という釈明を持ち出すことで自己責任から逃れるのです。

つまり「そんな場所にいるからいけない」「そんな服装をしているからいけない」

「そんな奴といるからいけない」というような言い訳が成り立ちます。

 

「良い人には宝物、悪い人は酷い目にあう」

という昔話が子供に与え続けられる限り、こうした思考はなくならないのです。