とんでもなく心に食い込んでくる映画でした。あっという間に観終えてしまった気がします。
女性主人公クリスティーナという名前は偽物で本当の名前はエレ・マリャである彼女はスウェーデン人として生活をしてきたのですが本当は「サーミ人」でした。
かつてはそのままラップランド人と書かれていたように記憶します。私がその名称を初めて知ったのは ペール・ヴァールー&マイ・シューヴァル「マルティン・ベックシリーズ」で「ラップランド人の妻」を持つ警官の描写からだったと思います。
ある警官が「知ってるか、ラップランドの女はアレが横についてるんだぜ」と言ったのに別の警官が「俺の女房はラップランド人だ」と答える、というものでした。
この例からしても少なくともかつてのスウェーデン人がラップランドの人々を酷く差別していたことが判りますし、それでも結婚する人もいて庇っていたことも判ります。
本作に描かれる差別体験は惨たらしいものでない、などと言えるものではありません。なんの説明もなく身体測定をし裸体を撮影されてしまう。民族衣装を着て歩かされるが学校ではサーミ語は禁止されスウェーデン語を強要される。進学することはかなわず、その理由は「サーミ人の脳はスウェーデン人よりも小さく劣っているから」
そうした描写のすべてに人種差別というものはどこでも皆同じものであると思わされます。
そうした差別に抗い仲間を捨ててスウェーデン人になりきろうとした彼女に私は共感します。
だけれども彼女がここまで苦しまずとも生きる道は今ではあると信じたいものです。
サーミ人でありつつスウェーデンの勉学を続ける道、そしてクリスティーナを名乗らずに本名でいれる道です。
現在日本でも通名を使うな本名を言え、などと罵る輩が存在しますが、いったいどうしてそうしなければならないのかを考えもせず口走る能天気さに呆れます。
民族の歴史は尊いものでそれに敬意を持ちたいものです。そして同時に新しい勉学をしていく権利が誰にもあるのです。
日本にもアイヌや沖縄の伝統と歴史がありさらに言えば地方それぞれの伝統と歴史があるわけです。
そうしたものを大切に守っていきながら新しい道を歩んでいく選択は素晴らしいものであるはずです。
全てを持っていた教師クリスティーナの名前を自らにつけそうなりたいと思った少女エレ・マリャの強さを尊敬します。
そしてまたここではほとんど語られることのなかった妹にもまた誇り高い人生があったのではないでしょうか。
彼女たちに二人をひとつにした人生を歩ませたかったと思います。
素晴らしい映画でした。