1976年公開作品。原題『All the President's Men』
確かに『ペンタゴン・ペーパーズ』のラストから続く始まりになっていました。
そして同じワシントン・ポストの記者が活躍する話ですが、『ペンタゴン』でキャサリン=メリルの部下ではあるが相棒的存在だったベン・ブラッドリー=トム・ハンクスがここでは上司ながら二人を叱責しある時は「彼はケネディ派だからな」と揶揄されます。それは『ペンタゴン』でもキャサリンから問い詰められてはいましたね。
そして同じく難しい話でとてもそこら辺を私は解説できるようなものではありませんので感じたことを少し。
1972年政府と新聞社の物語を1976年公開の映画製作なら仕方ないこととは思いますが、とにかく白人男性しか出てこない、と感じてしまうのは現在の感覚なのでしょう。黒人はほんの少しだけ存在するのみでセリフはなかったのではないでしょうか。ヒスパニックアジア系無論ネイティブアメリカンなどまったく映り込みもしていないように思えます。
また、白人女性は登場はしますが、ほとんどが妻や恋人、アシスタントというような役柄に限られているのです。
新聞社で働いている女性たちも重要な活動をしているようには見えないのはどういうことなのでしょうか。何気なくのんびりしていて仕事などしてないようにさえ見えます。
せいぜい一人の女性が男性関係を手掛かりにして主人公たちを手助けする、といった立ち回りにのみ関わってくる感じでした。性的な話にのみ女性が関わってくるというのはため息ですね。
それと比較して二人の主人公男性、バーンスタイン(ダスティン・ホフマン)とウッドワード(ロバート・レッドフォード)はコンビを組んで社内を駆け回って働いているわけです。あまりにも二人で飛び回っているので上司から「ウッドスタイン!」とまとめて呼ばれてしまうほどの熱々ぶりなわけです。
昔は男二人のコンビもの、バディものがむちゃくちゃ多かったのですが当然の結果なのかもしれません。
私は大好きでそのようなものを見ていたのですが、今となってはその背景にどういう主張や意識があってのバディものなのかを考えてしまいます。
だからこそ2018年公開の『ペンタゴン・ペーパーズ』は女性発行人であるキャサリンが主人公となってくるのでしょう。
とはいえ時代は同じなのですからキャサリンの態度は控えめで最初は頼りないほどでした。次第に強い意志を表現していく様子は感動的でありました。『大統領の陰謀』での女性の立ち位置、表現の在り方を見れば『ペンタゴン・ペーパーズ』ではそれがどれほど違って表現されているかが判ります。
同じ時期の新聞社内の話なのに『ペンタゴン』では女性記者も数は少なくとも強い主張をしている様子が描かれているのです。いったい真実はどちらだったのでしょうか。
『大統領の陰謀』では女性は何も考えていないかのように映し出されていますが『ペンタゴン・ペーパーズ』では当時でも様々な女性たちが自分の意志を持っていることを描いています。
同時代の同じ舞台の物語がこうも違って表現されるものかと思えてきます。
それを考えれば日本の物語も様々な角度で語られるはずです。
「すべての物語は出尽くした」というような旨を述べる人がいるのですが今世にある物語(小説・マンガ・ドラマ・映画)は男性視点で描かれたものがほとんどです。
原作が女性でも映画化ドラマ化するのは男性であるため配役や演出に男性視点が混ざります。(例えば『風と共に去りぬ』は原作と映画でかなり違った感覚になっています)
女性小説マンガであっても編集者・発行人が男性として選択してしまう、ということもあるわけです。
また作家である女性たちも経験上男性作品を読み鑑賞してきたので感覚が男性視点であったりするわけです。
私自身男性作家の男性主人公ものが好きだったのでそれを強く感じています。
もちろんこれらすべてをクリアした女性作品など望んでも仕方ないしそんなことにこだわる必要もないと思いますが、今までのすべての男性視点作品を女性視点に変えるだけでもまったくちがったものができるわけです。
なので「すべての物語は出尽くした」りしていないのです。
『大統領の陰謀』は面白い映画作品ではありますが、白人男性のみが知性を持って行動している、という描写に着目してしまうとはっきりいってうんざりしてしまいます。
当時はそのような描写は当然、だったのでしょうか。
アラン・J・パクラ監督の主義主張ではあるでしょうが、そうした男性中心の視点が強い作品が当時いくつもの受賞をしていることは確かです。