ガエル記

散策

『火狩りの王』その2

最近には珍しく続けて再鑑賞しています。

まだよくわからないけど期待してしまっているのかもしれません。

 

ねたばれしますのでご注意を。

 

 

再鑑賞の理由のひとつは昨日も書きましたが本作がきわめて女性的な作品なのではないかと思ったことです。

とはいえ現在のアニメ界の実情で映像作品に関わったメインスタッフを見てもほとんど男性ですから女性作品とは言い難いのかもしれません。なにしろ監督も脚本もキャラデザインも美術監督も編集も音楽も男性なのですから。

原作者が女性だというだけです。

 

ここで考えてしまうのは以前であればもっとアクション的な構成に変えられていたかもしれない、とも思えます。つまり本作で言えば冒頭でヒロインを助けて死んでしまう「火狩り」の物語から始まれば迫力ある導入部になるはずです。

(例えば『魔女の宅急便』において宮崎駿氏は原作を大きく変えてアクションアニメにしてしまったことを思い出します)

しかし本作で男性スタッフたちは本作をアクションドラマにせず幼い少女を地道に動かしていく行程をそのまま選んだようです。

この手法は男性的つまり少年マンガ的能動ストーリーを好む人々には非常に退屈な道なのではないでしょうか。

これまで日本のコンテンツは人気作ほど少年マンガ的(もう少し言えば少年ジャンプ的)手法を選んできました。

私自身女性なのですがこうした男性的なアクティブな物語を好んできたのですが最近になってもっと女性的な見方をしたほうが良かったのではないかと考えています。

つまりヒーロー側でも悪党側でもなく一市民の中でも弱い立場の人間から見た世界観です。

 

代表的な作品としては『赤毛のアン』です。これは小説としてでも高畑勲監督作品アニメを思い起こされてもいいのですが(非常に素晴らしく原作をアニメ化されていると言えます)ヒロインのアンが男の子を希望しているカスバート兄妹家に間違って養子に行かされるアクシデントから始まり何気ない日々の物語に伴って成長しますがやがてカスバート家が破産して兄が死亡し妹も目が悪くなってしまうという悲劇的な結末を迎えてしまいます。アンはまだ16歳でやっと学校の教師となる道に進むというだけの終わりです。しかしこの物語を読んだ(観た)人は誰ひとりとしてこの結末を不幸とは思わないはずです。大冒険もなく財宝や魔法の力を得ることもないのに他のどの物語よりも幸福を感じるのは何故なのでしょうか。

 

『火狩りの王』は『赤毛のアン』よりははるかにアクティブな物語にはなりそうですがヒロインの灯子はアンよりも頼りなげでひ弱そうな少女です。

特別な力も今のところ「唸る犬を手なずける」だけのようです。

そして灯子の物語にもうひとり15歳の少年煌四が加わります。

彼の力も今は未知数です。何かしてくれそうではありますがwしかも父親が「火狩り」だということでもしかしたら灯子を救った男がそうなのでしょうか。

 

再鑑賞していっそう期待が高まってきました。

「男性的物語」「女性的物語」という呼び方はやや性差別かもしれませんがこれまでの物語の多くが非常に男性的視点で描かれてきたことを思うとその呼び名が妥当なのではと思っています。

自分自身が(女性なのに)男性的物語を特に好んできたことへの戒めでもあります。

 

自然の火に近づくと人間が発火してしまう、というメタファーも何なのか考えてみなければなりません。