ガエル記

散策

『ジョーカー』トッド・フィリップス(『人斬り以蔵』を思い出しました)

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さんざん凄い映画だと聞いたうえで観たのですが、それでもそんな情報など何の意味も無いほど衝撃の映画でした。

 

まずは人生の悲しみ辛さの共鳴に押しつぶされるべきなのでしょうが、私はやはりアーサーに共感したふりをしてみせるだけの観客にすぎないのでしょう。映像のスタイリッシュな美しさに見惚れてしまいました。

ストーリーとしてはシンプルな悲劇ものといっていいのでしょうが、「タクシードライバー」や「キング・オブ・コメディ」を下敷きにしているのは主演のロバート・デ・ニーロをコメディ番組の司会としてキャスティングしていることからも明確な演出にしているという策略からしてとんでもない仕組みだと思わされます。そういう仕掛けを作ったことでひとつの映画の奥に別の二つの(しかも凄い!)映画作品まで組み込まれてしまったわけです。アーサーの行動にトラヴィスの意識まで乗り移らせてしまったのですね。

そして知能と精神の歪むアーサーの物語のどこからどこまでが現実で妄想なのかは「キング・オブ・コメディ」を思い出してごらん、という説明なのです。

冒頭でアーサーの道化師の顔に涙が思わずこぼれてしまうところからアーサーのひきつった笑いが苦悩の裏返しであること。アーサーの踊りはむしろバレエダンサーの動きと重ねてしまいます。

最初駆けあがっていった急な階段をジョーカーとなったアーサーが踊りながらゆっくりと降りていく場面は名場面としていつまでも残るものになると思います。

劣っていると嘲られても懸命に生きてきたアーサーはここで魔界へと降りていったわけですね。

 

映画の賛否は大きく分かれているようです。

賛辞する人はアーサーに共感できる人で、嫌悪する人はそうでない人と言われますが、それだけではないようにも思えます。

私はこの映画をこれまでにない優れた映画だと思いますが、アーサーを「気の毒だ。やはり福祉をもっと整備しないと」などと思ったりしてしまうわけです。「ハグして欲しいだけだよ」と言われてもやはり拒否してしまうのです。

映画は賛美してもアーサーを友達にはしたくないわけです。

 

その感覚は司馬遼太郎が書いた『人斬り以蔵』を読んだ時に似ています。小説は比類なく素晴らしいものでしたが以蔵と友達にはなりたくありません。

それでも数えきれないほど読み返しました。どういうわけでしょうか。

以蔵もアーサーも同じように愛に飢えていて同じように師匠を尊敬し求めていました。その心理を読んでいくことがやめられなかったのです。

 

『ジョーカー』を観て『人斬り以蔵』を思い出すのは日本人くらいしかできなさそうですが、様々な国には様々なアーサーや以蔵がいるようにも思えます。

 

 しかし本作が『人斬り以蔵』と違うのは以蔵が彼自身だけだったのにこの映画そして現在は誰しもがアーサーになってしまうのかも、と思わせてしまうことです。

友だちにはなりたくなくても共感できる存在を欲していることです。