ガエル記

散策

『17歳の肖像』ロネ・シェルフィグ

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「これは絶対観て欲しい映画」というお勧め文を見たのでまったく知らなかったのですがレンタルしてみました。

2009年のイギリス映画でかなりの受賞やノミネートをされた作品でもありました。始まってしばらくあまりにも普通の女学生物語だったのでいささか驚きました。これが「是非」のお勧めなのか、ちょい悪オヤジにひっかかってしまったおぼこ娘の顛末という筋書きにしてもさほど特異なことではないし、そのちょい悪がちょい悪というよりかなり悪だったとしてもこういう話はこれまで幾多もあったはずと思いながら観ていました。結果観終わって思うのは「よくある話」なのですが「いろいろと違う話」でもあるということでした。

リン・バーバーという女性記者の自叙伝をロネ・シェルフィグという女性監督が映画化した、というのもいろいろな違いの理由でしょう。

 

ではネタバレです。

 

これまで映画作品というのは製作者の男性が男性観客を想定して作られることが多く、時に女性客を想定する際も「女性というものは」と「男性が想像する女性の欲求」になっていたと思われます。

つまり女性向け映画というのは「夢みるような恋愛映画」である、というわけです。

 

この映画はいわゆる男性の欲望を満たす映画でもなく、女性向け、と言われる映画でもない状態で作られているのです。

 

1961年舞台でヒロインがオックスフォードを目指しているということからしてちょっとこれまでの軌道から外れているのでしょう。好かれるヒロインはもうちょっと「普通の学歴」であってほしいわけです。男としても(想像する)女としても。

しかしヒロインは頭がよくオックスフォードを目指し、しかも愛らしい容貌をしていて友人もいます。親とは仲がいいのですが適度に反抗もしますし隠れてではありますが日常的にタバコを吸っていて初体験は17歳でそれまではいけないと決めていてそれを実行する強さを持っているわけです。

こうした女性主体のきっちり感というのは男性製作ではあり得ない気もします。

オックスフォードを目指すヒロインはクラシックや絵画にも造詣が深いのですが、そんな彼女に近づいてきたのがお洒落な車に乗っている中年男でした。

中年男と言ってもすっきりとしたイケメンで言動からしても裕福なことがわかります。しかもクラシックや絵画に詳しい彼にヒロインは同年齢のボーイフレンドにはまったくない魅力を感じてしまうのでした。

実はこの中年男は詐欺師でその為に口が上手く羽振りがいいだけだったのですがそれを知ってからもヒロインは彼との付き合いをやめることができません。二人の関係はますます深くなっていきます。

 

ヒロインの両親特に父親は中流家庭ではありますが厳格で優秀な娘をオックスフォード進ませることに夢を抱いています。

ところが中年男はこの両親までも「立派な紳士だ」と思わせてしまうのです。

中年男はヒロインに結婚を申し出るのですがそれを聞いた両親は反対するどころか「良い縁談があるのなら大学に行く必要はない」と認めてしまいます。

ヒロインは退学して結婚に備えます。

中年男は家族そろってのディナーに誘うのですがヒロインは彼の車のダッシュボード内の手紙で彼が既婚者だということを知りすべてがご破算となってしまうのでした。

 

つい長々と書いてしまいました。

経験の浅い少女が中年男に騙され犯されすべてを失ってしまう、というような話は今までどれほど作られてきたでしょうか。

それは「酷い話」である反面あるいはそれゆえに人々の、多くは男性からの目線では性的好奇心をそそられる話だったのです。

本作はもろにそんな話でありますが、一度中年男とヒロインが一夜を共にする時は「私は17歳までは処女でいたいの」という言葉で拒絶してしまいます。男がせめて体を見せて欲しい、という場面ではヒロインのヌードは映されません。

映画ではいつも女優のヌード、というのが「売り」になってきました。もちろんそれがあれば男性客が集客できるから、という理由によってです。

さて本作『17歳の肖像』という女子高生の初体験を描いた作品、は男性客にどう受け入れられたのでしょうか。

そして17歳の夜、中年男はどういうわけかバナナを持ってきて「最初はこれで試してみよう」という奇妙な提案を持ち出します。

ヒロインは「ムードがぶち壊し」と言ってこれも拒絶して中年男はあやまりますがこのバナナ、男としては別に間違ったわけじゃなくいたいけな処女にバナナを差し込んでみたい、という確固たる目的で言い出したと思えます。

その後経験を終えたヒロインは「多くの物語で語られてきたものがこんなことだったなんて」と失意を言葉にしますがこれも男性製作ものではほとんどない女性の感覚なのではないでしょうか。

もちろんこれはヒロインと中年男の体験が本当に良い感じではなかったことの表しでもでしょう。

 

そして中年男の隠し事がばれ、ヒロインがすべて(オックスフォード進学も処女も恋愛も自尊心もそして友人や学校も)を失ったと嘆いた後もヒロインは自ら男の家庭をつきとめやや疲労した風に見えるその妻と対面します。

ヒロインに復学は認められませんでしたがかつてヒロインが軽蔑の言葉を投げかけた教師に謝罪し彼女の助けを頼って念願のオックスフォード大学に入学するのです。

 

登場する男性たちは父親にしろボーイフレンドにしろ中年男とその相棒にしろヒロインにとって彼女を救い出してくれるような存在としては描かれません。

ヒロインは結局自分自身でその難問を解いていかねばならないのです。

かつて男たちが描いたヒロインは世間の荒波にもまれ悪い男たちに性を弄ばれ苦悩するという姿が男性たちの快感として存在してきたのでした。

本作でのヒロインもその状況は同じでありながら男性の目の快感としてはあり得たのでしょうか。

 

この映画は「よくある話」なのですが「よくある話」でなければならない理由によって「よくある話」になっているのです。

男性製作者によって作られてきた「よくある話」が女性製作者によって作られた場合、「よくある話」は「なんだか違う話」になってしまったのです。

 

本作の「なんだか違う」のはこうした話が「誰も知らない」間に起こっていることが多いのに対し「誰もが知っている」中で起きていくことでもあります。

ヒロインは中年男との恋愛を公言していて同級生だけでなく教師の誰もが知っていてそのことで対立をしていきます。

ヒロインは最初「なんのために勉強なんかしなくちゃいけないの」と叫びますが中年男から騙されたと気づいた後では何のために勉強しなければならないのかを知り得ます。

自分自身で立つことができなければ対等に愛し合うことはできないのです。

「結婚出来れば進学する必要はない」という考え方は絶望を意味することだと中年男の妻を見てヒロインは実感したのです。

 

あまりにも良い両親に恵まれていてもいるし入学もしてしまえるヒロインの物語は実話とはいえ上手く行き過ぎの感がありますが「嫌な話」とならないうえで今までの物語を女性視点で作り直す、という企みのもとで作られた映画だと感じました。

 

それにしてもこんなにもみんなに知れ渡ってしまう、というのは不思議でもあります。

当時のイギリス社会はこんな感じだったのでしょうか。今現在のプライバシーは漏らさないのが普通の感覚ではあり得ないとさえ思ってしまうのですが。

とは言え近い将来すべて監視社会になってしまえばまたもやこういう状態になってしまうのかもしれません。

あらゆるところにカメラがあって誰が何をしているかは判ってしまう社会、そんな風にも思えてしまいました。