ガエル記

散策

『マルサの女』伊丹十三

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物凄い名作という評価であり私自身初鑑賞で面白いと思っていたのにDVD購入をしていなかったのですが改めて観てみてどうしてかが判りました。

 

以下ほとんど映画のあらすじではなく性的描写についての文章です。映画自体は面白いです。ネタバレというほどのなにかはないようにも思えます。

 

 

脱税と査察官の丁々発止のやり取りは今見ても、というより現在の日本映画にはない切れ味と濃厚さを堪能できます。

しかし映画冒頭から女性の乳房に吸い付く男の映像から始まりその後も女との濡れ場(という表現がぴったりという)が頻繁に登場してくるのが直視しがたい醜悪さなのですね。もちろん伊丹十三監督はその描写で脱税者の醜悪さを戯画化しようという目論見であろうというのはわかるのですが、露骨なのがどうにも耐え難いのです。

これは伊丹氏の演出というよりはよく言われる昭和的描写のひとつなのかとも思えます。

が、それ以外は時代を越えてもセンスがあり面白いと感じさせてくれるのに「性」に関する部分だけはいかにも昭和の映像になってしまう、というのは残念でもありそれほどにも抗えないことなのかとも思わされてしまいます。

例えば女性査察官である主人公に「寝ぐせ」を指摘したり「りょうこちゃん」とちゃん付けで呼んだり「娘を嫁にやる心境だよ」と言ったりするのは現在的にはNGではないかと思うのですが、それがあたりまえでありむしろ微笑ましいという時代だったのだなという時代考証として納得するしかありません。

伊丹十三監督は「あげまん」という映画のタイトルそのものが現在の性意識ではどうにもやるせないNGというのもあるので監督自身もともと性差別をしやすい人格だったのだろうとは思いますが。

私は伊丹氏のエッセイが大好きでかなり読み返しているのですが、確かに性差別意識は感じられる内容ではあるのですよね。面白いのですが。

 

昭和的、という言い訳みたいな理由づけがあるとしても当時のすべての日本映画が露骨な性描写を必ずやっていたわけじゃないですからやはり伊丹氏の感性はそうしたもの、であったのは間違いないのでしょう。

そして本作の中で描かれた性描写が「露骨に醜悪なもの」だけであったのも氏の性への感覚があるのでしょうか。

そしてシングルマザーでもあり希少な女性査察官であるヒロインは真逆に極端なほど性を拒否した存在として描かれています。

寝ぐせの酷いおかっぱ頭とそばかすだらけの化粧なしの顔、バイクに乗るせいもあってパンツファッションになるのですがそれのせいもあって背の低さが強調されいつも歯を食いしばっている感じとドタバタした感じはとてもセクシーとはいえません。

それは逆に日本映画のヒロインとして特別な存在にもなってるのですが映画の中で女性が性的役割としてほとんど登場しているのに査察官である彼女とその部下の女性だけは性的役割から完全に引き離されてしまっているのも疑問でもあるのです。

 

むろんヒロインが伊丹氏の妻である宮本信子氏なので夫としては妻が演技上とは言え他の男性の妻であったり、シングルマザーではあるけどボーイフレンドなりセックスフレンドなりがいる設定にするのは我慢ならなかったのかもしれません。

なのでこの時代にシングルマザーという設定は斬新、というよりも単に伊丹氏が嫉妬深かっただけかもしれません。

(他の映画で宮本さんがどういう役をしているかは知りませんが本作に関してのみで言えば)

ヒロインが誰かと性的な交渉を持つ場面は一切なくヒロインのエロチックな演出もないというのも他の場面とのバランス的に極端すぎるのです。

 

宮本信子演じるリョーコちゃんは「悪くない」だけにどうして彼女から女性的な部分を削ぎ落しすぎてしまったのか、それともこれも働く女性の「昭和的仕方なさ」なのかもしれません。

 

繰り返しますが『マルサの女』は面白いのです。

もしこれが『マルサの男』であったら文句なしの作品となっていたのかもしれません。或いはヒロインが妻ではない別の女性だったらもう少し変わっていたのかもしれません。

しかし伊丹十三監督は妻を選択し、その選択は正解だったと思います。

伊丹氏はセンスがよく戦う姿勢を持ちしかも家族や仲間想いであったために実力があるのに有名女優ではなかった宮本信子を一躍スターダムに押し上げ、かつ多くの俳優たちにも新境地を開かせたのです。

それは素晴らしいことだったのですが、性描写という点において中途半端であったと思います。

 

次回は同監督の『ミンボーの女』を見る予定です。それで少しまた感じるものが変わるのかもしれません。