原作小説読み進めています。少しずつ。
読めば読むほど宮部みゆき原作の面白さ・緻密さに惹きこまれ且つ映画がいかにそうした面白さを抜き取ってしまったカスカスだったのかを思い知らされています。
ネタバレになります。ご注意を。
映画にも良いところはあったと思います。
幾つも差異にがっくりくる中で原作以上に面白かったのはモリリン先生であり、原作をそのまま表現できていたのが三宅樹里の母親ですね。彼女たちを演じた黒木華・永作博美両氏は見ごたえありました。三宅樹里の石井杏奈は原作とはイメージは少し違いますがこれほどの「嫌な女」役をみごとに演じ切っていたと思います。
一方なぜここまで矮小化されてしまったのかは第二の主人公ともいえる野田健一くんです。上にあげた「良かった点」がすべて女性なのに対し映画では男性の役割がすべて省略されてしまったように思われます。
そして遺体として物語の中心となる柏木卓也くん。彼の物語が描かれなかったのはどう考えても納得いきません。そのために映画のレビューには「ただのメンヘラ野郎の話だっただけか」という言葉が並ぶことになってしまってますが、原作を読んでいくと「ただのメンヘラ」などではない彼のイメージが浮かんできます。単なるサイコもどき、というレッテルを彼に与えてはいけないのです。
小説を読みながらあまりの長編に第二巻は中だるみではないのかと憶測しましたが、まったくそんな心配は必要なく緊迫した状態で進んでいきます。
ここでも映画に登場しない人物、第三中学校で最も柏木卓也と仲が良かったのではないかと思われる男性教師が描かれます。
彼が登場しないという事は柏木卓也を証言することになるわけです。
まだ三巻に入っていないので思うのかもしれませんがこの作品は「中学生が裁判をする」という物珍しさにあるのではなく、「中学生が中学生の心を探っていく」という展開にあるのではないでしょうか。
映画はあくまでも「中学生裁判」を主体にしていてそのために製作者が余計な部分と思えたエピソードを切り落としてしまった。
しかし本当はその部分にこそこの物語の主旨があったのです。
野田健一くんを「人の好い普通の子」にしてしまったのではこの物語の意味を成さないのです。
映画で松重豊が演じた北尾先生は僅かな出番でも魅力的でしたが原作ではもっと涼子たちの捜査に協力していてもっと突っ込んだ役割になっています。
これも映像化できなかったのは残念ですね。
まだまだ読書続きます。