ずっと気になっていたのに観てなかった映画をやっと観ました。実は気になっていたのは脚本が市川森一さんだったからなのですが、先日、大林宣彦監督が亡くなられて「この映画の監督だったんだ」と気づいたという次第です。
以下、ネタバレになります。ご注意を。
なんとなく気になりながら観るのをためらっていた背中を押したのは監督が亡くなられたから、というのではなくツイッターを見ていたら
「この映画のラストは無かった方が良かったのではないでしょうか。なんとなくうやむやに終わらせた方が余韻があったのでは」と言うと大林監督は答えて
「いや、うやむやでは霊が浮かばれなくなります。因果応報はきちんと終えないと念が残ってしまうのです」
というようなやり取りがあった、と書かれていて物凄く気になってしまったのでした。
映画を観ないままこの文章を読んだので「ラスト」にあたる場面が名取裕子の怪奇現象の部分なのか、最後の最後、後日線香をあげている部分なのかよく判らないのでこの言葉をもう一度確かめたくて探したのですが見つけきれないでいます。
誰のやりとりだったのかなあ。
とにかくその一言で「これは確かめねば」と思って長年の躊躇を飛ばしてしまったのですから不思議なものです。早くこの言葉を知っていたらもっと早く観たかもしれません。
そして確かに他の方のレビューを見ると「素晴らしい作品なのにラストがいらない」「主人公の子供時代に亡くなった両親の霊とのやり取りは感動なのに、名取裕子の霊とにやりとりが台無しにする」といった意見が散見されます。もちろん名取裕子の霊が色っぽくて良い!という意見もまたあるのですが、反対派のほうが多い印象なのですね。
私としては両親パートはやや甘ったるいノスタルジーがすぎているようでかといって名取裕子幽霊パートが幻想的に美しい、とも思えずにいます。かつてよく言った「ベッドシーン」が良い感じでないせいもあります。
が、この物語が良きノスタルジーではなくて実は『牡丹灯籠』だったと判ってからは途端に興味が湧いてきました。
私は『牡丹灯籠』というのは中国の古典のように思えていたのですが、wikiを見るとこれが落語の人気怪談であり歌舞伎にもなっていたということをさきほど初めて知りました。
映画でも主人公がやつれていくのですがその原因が美女との逢瀬ではなく両親の霊に何度も会いに行くからという説明になっています。
しかし美女の正体からしてもやはり主人公の憔悴は彼女に吸い取られてしまったためのように思えます。
美女の正体がばれるのを引き延ばすための両親の霊、だったのか。どうなのでしょうか。
映画を観る前に私がプッチーニを何度も聞いていたので単なる偶然ではありますがなんとなくそれが不思議であったりしました。
もう少し本作について書いてみたいと思っています。