ガエル記

散策

『八月の狂詩曲(ラプソディ―)』黒澤明

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こんなに良い映画だったんだなあ、としみじみと感じました。

黒澤監督後期の作品で時代劇でもアクションものでもないようなのでなんとなしに見送ってしまっていましたが、とんでもなく素晴らしい映画でした。

 

やはり黒澤映画らしいがっしりとした骨太な感覚があります。主人公の鉦(お祖母ちゃん)さん自体がしゃんとしてへこたれない強さなんですね。原爆症のせいもあってか髪もかなり減ってしまって折れそうなほど細い体ですが精神もからだもぴんとしているのです。

孫たちに「おばあちゃんのご飯はまずい」と言われて一時落ち込んでもすぐに立ち直って孫娘の作ったカレーライスを感謝して食べる姿に感心しました。まあ、孫が作ってくれるのは別格ではあるのでしょうけども。

 

親たちは自分たちの生活のことばかりを考えドタバタしているのに、孫たち四人は自分たちで原爆を知ろうとし、おじいちゃんが亡くなった場所を訪れます。
小学校の校庭では原爆で歪んだ形になったジャングルジムがモニュメントとなっており、そこに人々が集まってきます。
彼らはかつてこの小学校で学友を失った人々なのでした。丁寧に石碑を拭き花壇を手入れする様子を見て孫の一人・信次郎は「怖い」と怯えます。
「それはね、この人たちが一番恐ろしいものを見た人たちだからだよ」

 

長崎が舞台で原爆が題材になっていている、という時点でおろそかに観てはいけない、という足枷がつけられてしまうものです。それを言うことすら不真面目であるようで正座して観なければいけないみたいで、そうした作品は人を遠ざけてしまうのですがこの映画にはそういう押し付けが無いように思えました。

これ以降の最近の作品で言えばアニメ映画『この世界の片隅に』が挙げられるでしょうが、それより先にこの映画はあったのですね。

なにしろ映画の宣伝コピーが「なんだかおかしな夏でした・・・」という原爆題材映画にしては風変わりなものになっています。

おばあちゃんと孫たちのゆるやかで穏やかだけど嫌なものは嫌という愛情深い交わりが主体となっていておかしい場面も結構多くて面白いのです。

私はこういう何気ない緩い感じの愛情映画みたいなのは退屈で観る気が失せてしまうのですが、どういうものか本作はうっかり観通してしまったのでした。

 

冒頭、九州の夏らしい白い雲がくっきりと映える青い空。長崎の田舎に一人住むお祖母ちゃん「鉦さん」の家へ集まった孫たち四人。

お祖母ちゃんは元気ですがちょっとだけ「ボケているのかな」と思える節もありますが、これがわざとなのかどうかがよくわからない。

お祖母ちゃんの家はすっきりした日本家屋で食事は床にトレイを置いて食べる方式。困ったのはお祖母ちゃんの作るご飯がまずくてとても食べられないこと。

(普通こういう映画に出てくるお祖母ちゃんは料理が得意、というのが定番ですがこういうのがおもしろい)

家には古ぼけた足踏みオルガンがあるのですが音が外れてしまっているのですが孫の縦男(たてお。名前も変わっています。おばあちゃん兄弟は金へんがついている錫二郎とか)はこの夏休み中に絶対修理してみせる、と意気込んでいます。

最初音程がずれて気持ち悪い音色が物語が進むにつれてよくなっていきます。そしてクラークさんがお祖母ちゃんに会って「おじさんのことを知らなくてすみませんでした。長崎、ということで思いつくべきだったのにあなたたちのことを思いやらなくて悪かったです」と話し、お祖母ちゃんが「よかとです。サンキューベリマッチ」と月夜に握手をした後ではオルガンは美しい音色を奏でるのでした。

こうした物語に彩を添える演出の巧みさが素晴らしくて観てしまうのだと思います。素朴な日常的な物語なのですが黒澤監督にかかるとすべてがドラマチックに力強くなるのです。

 

と、こうして黒澤明監督『八月の狂詩曲』に浸って感動してこのブログ記事を書くために映画に関するものを検索していると原作者・村田喜代子さんが書かれた本作の批評に出会ってしまいました。

 

umedayoon.web.fc2.com

この批評記事を読めばすべて書かれていているようにも思えます。素晴らしい評でした。

特にお祖母ちゃんは黒澤明その人なのだ、というくだりはまさにそうだと思います。

この物語は黒澤明の映画監督としての歴史そのものなのでしょう。

お祖母ちゃん=黒澤明にはたくさんの兄弟がいて戦争の中を生き抜いてきました。死んだ者もいました。イコール、映画界の中で戦い生き抜き、脱落した者もいたということです。

子供を産み、才能のある孫たちもお祖母ちゃんの血筋を受け継いでいます。イコール黒澤監督の映画を観て感銘を受けた人々またその下の人々が次々と映画を作り続けていることです。

お祖母ちゃんのオルガンはすっかり古ぼけて調子っぱずれです。

イコール黒澤監督はもう古い、かつての音色はもうない、と言われています。

 

子供たちは「おばあちゃんはぼけてしまった」とあきれています。

黒澤監督は、以下略。

 

兄の死の知らせを受けて行動しなかった自分を責めたお祖母ちゃんは豪雨の中を飛び出し歩き続けます。

馬鹿にされ続けても黒澤監督は罵声の中(豪雨)年老いた体に鞭打って(よろよろのお祖母ちゃんのように)映画製作のため進み続けます。

後を追うのは原作者さんのいうとおり、原作者さんやスタッフさんたちです。やみくもに突き進む黒澤監督を止めようとこけつまろびつ追いかけますが黒澤監督を止めることはできません。

しょぼい傘が豪雨でオシャカになってもお祖母ちゃん(黒澤明監督)は突き進むのです。

 

が、同時にやはり戦争を生き抜き原爆被害と後遺症で毛髪が抜け落ちてもなおかくしゃくとして生きているお祖母ちゃんが土砂降りの中傘を掲げて進み続けている姿に涙が溢れます。

それは年老いた黒澤監督でもありまた年を取った私自身の姿でもあるのですから。

 

そして傘がオシャカになった瞬間に流れる「わらべは見たり、野中の薔薇」

ああ、あの慰霊の時、蟻が集まりよじ登って言ったあの赤いバラはお祖母ちゃんのことだったのです。

「清らに咲けるその色愛でつ飽かず眺む野中の薔薇」

お祖母ちゃんは薔薇でした。