大好きな市川崑監督である。
しかも脚本は四騎の会と名乗る黒澤明、木下惠介、市川崑、小林正樹という物凄い面々。
尚且つ主役を務めるのは役所広司わき役も有名俳優が名前を連ねる。
プロデューサー西岡善信の作品を観ても素晴らしいタイトルが並ぶ。
ここまでそろえてつまらない映画ができるわけがない、はずなのですがこれがなぜかあまり面白くないのです。
というか観ていて恥ずかしくて恥ずかしくて顔から火が噴き出てしまう、のです。
いったいこの奇妙な感覚はどうして生じたのでしょうか。
まず上のポスターの役所広司のこのポーズはどうしたって『用心棒』の三船敏郎を意識したものでしょう。それはリスペクトともオマージュともいえるわけで構わないのですがこれが効果的である、という選択の意識が恥ずかしく思えてしまうのです。
弱っちそうな例えばこの映画の中でいえば鶴太郎氏などがやっていれば面白みとして(好きにはなれませんが)考えられますがすらりとした役所広司がやっていてもさほど愉快にはなりません。
そう。この映画は一事が万事なにか勘違いして作っているような気がしてならない恥ずかしさに満ちているのです。
それはこの映画が2000年製作でそれから21年経ってしまったことからずれてきたことなのか、その当時から外れていたのか、当時本作をまったく観ていなかった私には判断しかねるのですがもしかしたらたぶんその時すでにおかしかったのではないかと考えます。
役所広司演じるどら平太は確かに「かっこいい」のです。身分が高く強くしかも社会を斜めに見ているかっこよさ、男も女もほれ込んでしまう男、なのですがそのかっこよさがなにか「勘違い野郎」的な存在なのです。
なんでしょうか。
市川崑監督やその他の映画界の重鎮たちがかつての「粋な男」をもう一度作り上げてみたら現在の社会ではその粋さが珍妙に見えてしまった、ということなのでしょうか。
まずはキャスティングが「現在の感覚」ではないのです。
役所広司、浅野ゆう子、 片岡鶴太郎、菅原文太などなどの配役が間違っています。
というかどら平太、というキャラクター自体が現在憧れる形ではないのでこの映画を作ったこと作りたいと思ったこと自体がずれているのです。
世界各地にあるかもしれませんが日本では「実は身分の高い存在が正体を隠して悪と戦う」というヒーローが数多く活躍し好まれてきました。
『水戸黄門』がその代表でしょう。いざとなると「この紋所が目に入らぬか」と言って悪人たちが「ははーっ」と土下座するというやつです。なぜかこれでみんなすっきりしてしまうのです。
『ウルトラマン』も一種のそれに思えます。普通の地球人のはずが実は凄い力を持つ宇宙人なのです。
平民が上に盾突く物語よりも王子さまが民衆に混じって悪を退治してほしい、と願うのはなぜなのでしょうか。
本作『どら平太』は昔から好まれた「身分の高い武士様が気さくに民衆を助けてくださる」話でした。
その内容が現在観ているとあまりにもずれているように思えてならないのです。