ガエル記

散策

『秋津温泉』吉田喜重

f:id:gaerial:20200607070740j:plain



先日『炎と女』『嵐が丘』で興味を持ちました吉田喜重、u-nextにはこれのみありました。

『秋津温泉』というシンプルなタイトルは原作小説そのままなのですが今であればゴテゴテと副題を盛り込まれそうではありますね。それにしても先に吉田喜重を知っておかなければ見てみようとは思わなかったでしょう。

 

ネタバレになりますのでご注意を。

 

 

先に観た二つの作品は風変わりな特色のある奇をてらったともいえる演出でしたが本作は丹念に物語を映像化していっているものです。単純に17年という長い年月を経るからこそのこの結末というのが効いてくるのですが、現在の映画であればもっと構成をいじくってしまうのではとも思えます。

 

この映画は本作の主役・岡田茉莉子の100作品記念として作られたもので企画と衣装を彼女が担当しており監督を吉田喜重に依頼したということだそうです。

これも映画作品が多かった昔だからこそで今はあまりないことかもしれません。まず30代で100作品はあり得ないのではないでしょうか。

 

それにしてもいろいろと考えさせられる映画でした。

終戦まぎわで肺を病んでたどり着いた男・河本周作(長門裕之)を山奥にある秋津温泉の娘・新子(岡田茉莉子)が親身に看病をしていく羽目になる、というのが始まりですが、その秋津温泉は軍人さんが貸し切り状態にしてどんちゃん騒ぎをしているので他の人を泊める部屋はない、という話になるのです。その上旅館の娘・新子が「日本は負ける」と言ったことで軍人が大激怒し「きさまぁ」といういつもの騒ぎを始めます。「女の分際で我が大日本が負けるなどと叩き切ってやる」と日本刀を抜くわけです。小娘相手にこんな騒動をしているんじゃ確かに負けるわな、としか言えません。

とりあえずは分別のある軍人から「まあ酒でも飲んで落ち着け」ということになります。

また肺を病んだ河本を医者に診せると医者は「こんな体じゃ何の役にもたたない。こんな体の弱い男に飲ませる薬はない」という奇妙な言葉を述べて帰っていくのですが、戦時中というのは意味がわかりません。

(後の場面で「ストレプトマイシン」という言葉が出てくるのですが昔はこの言葉がよく使われていた気がします)

ほどなくして日本は敗戦するのですが、この軍人と医者はどうなったのか、まあこれもよくある話でころりと民主主義者とやらになったのでしょうからどうでもいいんですけどね。

 

主演の岡田茉莉子の記念映画作品というだけに彼女の美しさを際立たせた製作になっています。

一貫して見せる女性らしい所作やしなの作り方、というか小さな動き一つ一つが女らしい。その動きを洗練された女優のしぐさ、と賛美する人もいるかもしれませんが、現代人少なくとも私はそうした女性らしい動きを「良し」と思えなくむしろ気持ち悪いものに感じてしまいます。

現在の日本女優の芝居にはそうしたしぐさはほとんどないので一般的感覚であろう、と思ってはいます。その代わり別の女性しぐさはあるのですが。

 

そしてこの物語。岡田茉莉子氏はどうしてこの物語を自分の百本記念作品にしたかったのでしょうか。

明るくて美人でものをはっきり言う気の強い娘は嫌っていた旅館経営を結局継ぐことになります。こういう経緯も日本女性らしい気性というのでしょうか。

一方、河本は肺病で死ぬ寸前だった一命を彼女に助けられますがその後どんどんクズ男だったことを露呈していきます。

河本は新子に「一緒に死んでくれ」と心中を持ちかけます。承諾した新子ですが根が明るい新子は途中で笑い出してしまい心中は未遂と終ります。

 

新子と別れ東京に戻った彼は目指す小説がなかなかうまく書けず酒に溺れ別の女性と結婚し子供もできるのです女房を働かせるばかりでぐだぐだと生きています。再びすがるように秋津温泉にもどり新子と結ばれますが河本はどっちつかずのまま生き延びていこうとします。

後半の新子は若い頃の弾むような彼女ではなく旅館も手放してしまうのです。

 

この物語を岡田茉莉子自身と重ねることもできますが、やはり日本の女性と男性を象徴的に描いたものであるように思えてしまいます。

それは無論美徳としてではなく最も嫌悪すべきものであるといえます。

 

新子は仕事も無くし、腐れ縁のようにして続けてしまった河本がまたもや帰っていくのに「一緒に死んでほしい」と頼みます。

かつて彼からそう言われた時新子は河本の願いを承諾したのです。これは彼女の最後のテストだったのでしょう。もし彼がここで「うん」と言っていたら新子は「冗談よ」と言っていたに違いありません。

しかしクズ男は怖がり逃げ出します。男の卑怯さに絶望し新子は手首を切って自殺します。

 

河本(長門裕之)が新子(岡田茉莉子)を抱きかかえて歩くのですが、ワザとの演出でしょうか、なんとも力がないというのか重そうでよたよたして何度も抱えなおしたりしているのですね。

長門さんは大柄ではないから仕方ないのですがそれも含めてどうにも頼りないではありませんか。

 

正直終始ダメダメな映画なのですが、こうしたかっこ悪い話だからこそ岡田茉莉子は映画化してみたい、と思ったのではないでしょうか。

心底嫌悪な物語だと思えます。

 

綺麗な話、良い話、ではなく気持ちの悪い話捨ててしまいたい話だからこそ映画として留めたいものもあるのですね。