ガエル記

散策

『僕はイエス様が嫌い』奥山大史

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冒頭観てもうすっかり惹きこまれて観てしまったのですが、なんかもう茫然としています。

特に最近、日本の映画を観るたび失望して「日本映画にはもう未来なんかないんじゃないか」とまで思っていたのでやっと小さな灯りが見えたような気がしました。

 

作監督・奥山大史氏は物凄く若い人でこの映画で映画賞を受賞した時が22歳だったという破格な方でこれからどうなるかは未知数ですしまだ一作しか見ていない時点でどうこうは言えませんがそれでも日本映画が良くなっていくかもしれない可能性を感じさせてくれました。

 

以下ネタバレにもなりますのでご注意を。

 

 

 

 

あまり日本には厳しい表現の規制がない、と思われていそうで案外いろいろな規制があるように思えます。その一つが宗教です。(日本人が大好きな自主規制というやつかもしれませんが)

海外の映画作品(他の分野でもですが)には自分が関わった宗教を見つめ考えてそれを作品に昇華していくというクリエイターが多くいますが日本人の場合それがなんであれ宗教が主題になっていると感じることがほとんどありません。

実はそうした思考が日本映画の質を貧相なものにしてしまっているとさえ私は思っています。

本作はタイトルからして驚いてしまいます。無宗教者であったとしてもイエス様を嫌いというのは気が引けるでしょう。かなり過激なタイトルです。

そしてその内容は真っ向から宗教を問いただしていく作品でした。やはり若さでしょうか。変にひねくらずストレートに神様の存在を問いかけていく構成になっています。『僕はイエス様が嫌い』ということはイエス様の事を深く考えることになるわけです。

真実神を信じるには一度神の存在を疑わなければならない、と聞いたことがあります。

まったく疑惑を感じないまま一途に信じる者より一度その価値を疑い深く考えることこそが大切なのだと。

 

私自身はキリスト教徒ではありませんがクリスチャンであるクリエイターが恐ろしいほど繰り返し繰り返し「神は在るのか?」という問いをしその答えを作品の中に描いてきたのを観てきました。その数を数えきれる人はいないでしょう。なぜあんなにもクリスチャンは神の存在を問い続けるのでしょうか。しかしその作品は異教徒である人間の心にも届き感動を与えます。

大好きなSF映画ブレードランナー』の主題も「神は在るのか?」というものでした。日本人の多くは宗教を主題にしてしまうと堅苦しくつまらないものになる、となぜか思い込んでいますがそうではないことを多くの作品が証言しています。

スティーヴン・キングの小説と映画化された『グリーン・マイル』は明確にキリストを謳ったものでしたがアレをつまらないと思う人はいないはずです。

 

インタビューを見たのですが監督自身は小さい頃から大学までキリスト教系の学校にいたということで自然にクリスチャンだったそうです。

しかし映画ではその外側から来た少年いわゆる普通の日本人(仏教だけどあまりよく知らないという)である少年が主人公になっているので「普通の日本人」である私たちにも共感しやすい作りになっています。主人公のユラくんも「普通の小学校から来ました」と言って転校してきたキリスト教系学校の先生が「ここだって普通の小学校だよ」と笑い返すのですがまさにこのやりとりが「普通の日本人」の思考を表していると思えます。

 

 

その部分をのぞけばユラくんは監督自身なのでしょう。小学生時代というまだものごとが混沌とした不安定な時期に出会った大切な友人とその別れにユラくんは問いかけたのです。

 

「親友を取り戻したい。その一番大事な時になぜあなたは現れなかったのか?」「どうして一番大事な願いをあなたはかなえてくれないのか」

まだ幼い彼はその答えをこれからもずっと考えていかねばならないのでしょう。

 

しかし奥山監督はひとつの答えも用意してくれました。

おじいちゃんです。

 

死んでしまう前、おじいちゃんは障子にずっと穴をあけていました。障子はあなだらけになってしまっててユラくんとおばあちゃんはふたりで障子を張り替えました。

ユラくんはおばあちゃんにその理由を聞きましたがおばあちゃんにもわかりませんでした。

 

親友カズヤくんを失った今ユラくんはおじいちゃんの真似をするように張り替えたばかりの障子に穴を開けてみました。

 

そこには雪の校庭でカズヤくんと自分がいっしょにサッカーをする光景がありました。

そうです。

障子に穴を開けそれを覗き込むことで大切な思い出を見ることができたのです。きっとおじいちゃんもそうだったのです。

 

人生の中で大切なものを失ってしまうことがあります。それは神様にお願いしてももう元には戻りません。神様の力をそこに使うことはできないのです。でも人は思い出を見ることができます。

その時カズヤくんは目の前に現れるのです。

 

 

小さなイエス様が可愛らしかったです。怖い存在でも奇妙な存在でもなく愛らしい姿。それも奥山氏の愛すべき感覚に思えました。