この映画の記事はもう書いたんだろうか。覚えていないのですがもう一度観るのは辛いので再度書くこともないと思っていました。
先日「父と娘の物語」に良いものはあるだろうかと考えていてまず思いついたのがこの映画でもう一度観なおしたくなったのでした。
ネタバレになりますのでご注意を。
もう一度観るのが辛い、というのはつまらないから辛いのではなくて逆にあまりに心に刺さる映画だったからです。
ニール・アームストロング船長の名前とその業績はもちろん知っていました。その輝かしい男『ファーストマン』の物語がまさかこのような彼の内面だけを描いた作品だとは思いもよらなかったのです。
しかもその心の内面は言葉で語られるわけではないので観た人によっては「何を描かれているのかさっぱりわからない」とレビューしている場合もあります。
この映画が何を描いているのか。
アームストロングは幾人もの仲間の死を見送り妻を嘆かせ二人の息子と妻を残し手自らも死んでしまうかもしれない危険を冒しても月へ飛んだのはただ一つ、死んでしまった愛しても足りない小さな幼い娘を連れて行きたかったからでした。
むろんその小さな娘はもういないのですが小さな形見のブレスレットを月にもっていくためだけに彼は「地獄の訓練」と死の恐怖を耐え抜いたのだと思います。
亡き娘のブレスレットを月のクレーターに投げ込むなんて本当のことだろうか?
なんていうことを考える必要はないのです。
私はこの作品は「娘を思う父親」というテーマを描きたいがためにアームストロング船長を題材にしたのではないかと考えます。
ニールが本当に娘の形見を月に投げ込んだか、が問題でもなく「感動を呼ぶためにうその演出をした」のでもなく「娘への愛情」というテーマを作品とするためにこれを物語にしたのです。
この作品を観て思い出すのは紀貫之の『土佐日記』です。日本の古典であるこの作品は「男のすなる日記を女の私がやってみた」というていで男性が女性のふりをして書いた作品として人々の笑いを誘うことだけで有名で私も長い間そうとだけ思っていたのですが実はこの作品が「土佐で亡くなった幼い娘を嘆く父親が位の高い男のメンツで仕方なく女性のふりをしてその嘆きを書いたもの」と教えてくれたのはドナルド・キーン氏でした。
なぜ日本人の私が日本にいて長い間まったくそのことを知らずキーン氏に日本人の心を教えてもらわねばならないかというのも不甲斐ないのですが今日はそのことは置いといて父親の娘への愛情の話を続けます。
心の内面を表に出さず言葉にもしない寡黙なニール・アームストロングもまた娘の死を人前で嘆くことができない男でした。
映画では妻にさえその動揺を伝えていません。
冷静沈着として名高い船長アームストロングは娘の死への悲しみを誰にも言えなかったのです。
しかもアームストロングは女になって嘆く技もありませんでした。
映画中栄光の月面着陸は多くの反論を受けるという負の側面を映し出しています。カート・ヴォネガットが月ロケットを批判していたのは私も読みました。
巨額の費用は市民を圧迫しました。
アームストロングが月へ旅立つ日、家族は彼を幸福に送り出すことはできず妻はいら立ち子供たちは戸惑っています。暗闇の中彼は家を出ます。
とても奇妙な旅立ちの光景です。
まるで月探索など誰も望んでいなかったと思える映画表現なのです。
不幸を背負って彼は月へ飛びました。
彼のただひとつの支えはもういなくなってしまった小さな娘の思い出だけだったのです。
月に降り立っても彼の目に見えるのは家族で過ごした緑のピクニックなのですから。
彼に見えるのは娘が指さした月なのです。
この逆の映画がジョディ・フォスター『コンタクト』であるように思えます。父と娘の物語は宇宙を介して語られるものなのでしょうか。