ガエル記

散策

『Fukushima 50』『太陽の蓋』そして『シン・ゴジラ』

f:id:gaerial:20210314054054j:plain

f:id:gaerial:20210314054116j:plain

少し前に録画していた『Fukushima 50』なかなか観る気持ちが起きなかったのですが3月11日映画放送もあったらしくあちこちで話題となり自分も確かめたくなり鑑賞しました。

以前観ていた『太陽の蓋』を再鑑賞し、あれこれと批評を読みました。

 

ある批評で『Fukushima 50』を鑑賞する人々があまりに強く賛否に分かれていることを「もっとニュートラルに鑑賞し考えられないか」と書かれていたのですが「自然災害からの原発事故」というこの凄まじい事実に対し何かに偏らずに観て考えることなどできるわけもないしそんな人間がいたらむしろ恐ろしいです。もちろん映画を観て考えが変化する人はいるでしょう。

 

私は明確に「原発はすぐにでも廃止しなきゃいけない」と思っています。無論その気持ちで鑑賞しました。

 

『Fukushima 50』と『太陽の蓋』は立場的に両極端とも言われますが私にはまったく何の違いもない「恐ろしい映画」として観ました。

まさか『Fukushima 50』を観て「やっぱり原発は安心だ。これからも永久に原発だ」と思った人はいないでしょう。そんな人がいたら狂っています。

むしろ『Fukushima 50』を観てこれまで以上に「絶対に原発使用を許してはならない」という意識を強くしました。

皮肉ではなく映画自体にきっぱりとそうした意思表明があると私には伝わったのですが違うのでしょうか。

糸井重里氏がこの映画を観て「ずっと泣きっぱなしだった」とのことですが無論私と同じように原発への恐怖で怯え震え絶対にもう廃止した方がいいという涙だったと信じます(これは皮肉)

原発事故で戦ったあれほど立派な心掛けの人々を危険に追い詰めたぶんそれが原因で死を早めたであろう事実を思えば「原発廃止」以外のなにがあるのか。そう思わないのならその人自身が狂っているのです。

それらの行為が真実だっったかどうかではなく映画の通り立派な行動をとる人々を守るために原発廃止せねばなりません。映画は嘘で立派な行動をとれないのならまたこれも廃止せねばなりません。

『Fukushima 50』が真実で最高に素晴らしい映画だ、と書くことで原発廃止になるのなら私はそう書きましょう。

いやほんとうに『Fukushima 50』は体制側に立ったように見せかけて実は「原発廃止」を謳った映画ではないのでしょうか。でないのなら私はなぜ「原発廃止」を再強化したのでしょう。何度も言いますがあの映画を観れば誰でも世界中の原発を無くそう、と決意するはずの恐怖を味わいます。今まで観たどんなホラーよりもどんなサスペンスよりもぞっとする恐怖です。対等なのは『チェルノブイリ』だけでしょう。

その意味では『太陽の蓋』のほうはやや生ぬるい。『Fukushima 50』のほうがはるかに「原発怖い」を絶叫していたではありませんか。糸井氏もその絶叫を聞いて号泣されたのです。(皮肉)

 

この二作品をブレンドしてより映画として昇華させたのが『シン・ゴジラ』です。

(といっても『Fukushima 50』のほうが後で作られたんですが)

ゴジラ原発そのものではありませんか。放射能をまき散らし止めようとしても止めきれないのですから。

どうすることもできない政府、現場の決死隊、逃げ惑うしかない市井の人々。まったく同じです。

 

ちっぽけで愚かな人間たちがゴジラを止めきれないのと同じく原発を操ることはできないのだと『Fukushima 50』『太陽の蓋』そして『シン・ゴジラ』を並べて観れば思い知ることができます。

私たちには原発(=ゴジラ)を操作する頭脳も力もないのです。『Fukushima 50』はそう絶叫していました。