ガエル記

散策

『少年青年マンガ』の戦いと『少女マンガ』の戦い

先日ひょこっと思いついたことを忘れないうちに記しておきます。

 

事の始まりは相変わらずですが、ある方のツイートでした。

 

とはいえ私が思いついたのはこのマンガやコメントなどについてのあれこれではなく

「男性(少年)向けマンガ、男性作家マンガってこういった悪人の論理や「究極の悪」とかいう心理を描くのが多いなあ」

ということなのでした。

ということは

「少女・女性漫画家はあまりこのジャンル「究極の悪」というような題材を好まない、描いていないってことかな」

 

この考え方はとっくに多くの人が考えて発言されているのかもですが私自身はそういうのを考えたり聞いたり読んだりしてなかったように思えたのでちょっと考えてみました。

 

まず女性である私自身の好みを言うとこうした「悪の論理」「究極の悪」などといった題材はとても好きで興味があります。なのでそれを題材にする少年青年マンガも夢中で読みます。

では他の女性たちがそれを嫌いなのかと言えばいやこれも好きなのではないかと思っています。

しかしその一方でやはり少女マンガは必要なのです。そこには少年青年マンガとは代えがたい重要な「なにか」が描かれているからなのです。

その違いはなんなのでしょうか。

考えてみましょう。

 

ここで私が使っている「悪の論理」「究極の悪」を扱ったマンガとその内容がどんなものか説明しないと解りにくいでしょう。

 

そもそも少年マンガは読者を投影する主人公が敵と戦っていく、という設定で始まるものが多いのです。

この「敵」がスポーツのライバルか地球の征服者かということで実直な現実味か壮大なスケールのSFか、となっていきます。

またスポーツであっても極端に超人的な選手を作り上げていく組織が絡んでいたりもするわけです。

現実的な誰もが経験するタイプを「敵」にあてがえば「リアルな青春もの」作品になります。

世界・社会を支配しようと目論む悪の結社を「敵」にすればより主人公の英雄度が上がっていくわけです。

この場合その「敵」の「悪の論理」をどれほど巧妙に詳細にそしてそれを巨大化させていくかが作者の手腕となっていきます。

空想の産物・死神が鍵となり一見正義と思えてしまう「悪の論理」を駆使していく構造の『デスノート』は最も解りやすい作品でだからこそ長い間何度も繰り返し再現されているのだと思います。

 

比較して少女マンガはこの「悪の論理」「究極の悪」を構想していく、という形式をほとんど使いません。

私は長い間男性読者が少女マンガを嫌うのは性差別か少女マンガの絵柄が問題かと思っていたのですが、実はこの「少女マンガには悪の論理の形成」がないからではないかと(突然)思ったのでした。

つまり男性読者にとって「悪の論理」を読む・知るのはこの上ない快感なのですが少女マンガにはそれがない。

すなわち読んでも面白くないのです。もし少女マンガにも男性読者が求める「悪の論理」が描かれていたら彼らは恍惚として少女マンガを読むでしょう。が、そこに彼らが求めるものがないのです。

 

では「少女マンガ」「女性マンガ」を読む女性たちは「悪の論理」を求めていないのでしょうか。女性たちには「悪の論理」を描く力がないのでしょうか。

いや、女性たちにとって「悪の論理」そして「究極の悪」はすでにあるのです。

そしてそれは空想などで思い描けないほどの究極の悪なのです。

 

「少女マンガ」そして読者である女性たちにとって「悪の論理」はすでに彼女たちの住む社会にあります。

それは「女性差別」「女性としての使命」というどうしようもない巨悪であるのです。そしてそれと戦っても勝利はないのがわかっています。彼女たちの戦う相手は最初から自分自身なのです。

 

少女マンガの主人公(ヒロイン)の敵は彼女をいじめるライバルではなく自分自身をどう変化させ成長させていくかにあります。

例えば萩尾望都『スターレッド』のような壮大な宇宙SFという題材でさえその結末はレッド・セイが自分自身をどう変化成長させるかでした。巨悪の宇宙人を倒すことではないのです。

もし少年マンガで馴れた「宇宙の支配者をぶっ殺す」ことが結末と信じる(男性)読者がこの本を読めば「?」「これ、なにか解決したの?」となりそうです。

宇宙は変化しない。

主人公が変化するのです。

 

この論理で考える少女マンガ作家たちにとって空想の「悪の論理」「究極の悪」を構造していくことはあまり意味がありません。

大切なのは主人公の少女が自分自身と「どう戦っていくか」なのです。

しかしその戦いは女性の内面の戦いなので読者が男性である場合「何も解決していない?」となってしまうのです。

しかし男性の中にもその内面の戦いを汲み取れる人がいてそういう人にとっては「少女マンガは最高」となってしまうのでしょう。それはそうです。少年青年マンガにはそうした「内面の戦い」を描いたものが少ないからです。

 

そして少女マンガにおいて多くは現実的な設定であるほど「内面の戦い」を描きやすくなるし読者も共感しやすくなるわけです。

そこにはすでに彼女たちが現実社会で対面する様々な論理との戦いが反映されています。

それがすでに「悪の論理」であり「究極の悪」そのものなのです。

「なぜ女性は男性より低くみられるのか、なぜ男女同じ点数でも女性は不合格にさせられるのか、なぜつねに女性は男性からの暴力を恐れていなければならないのか、なぜ妊娠出産を強いられてしまうのか」

それらの解決はいつ成せるかわからない社会改革よりもまず自分自身の改革だからなのです。

 

もし社会改革がすっかり整えられ完全に男女平等となったら少女マンガも「究極の悪」を考え始めるのかもしれません。

それまでは少女たち女性たちは自分と戦い続けていくのです。