ガエル記

散策

『少女革命ウテナ』何度目かの鑑賞

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幾原邦彦作品を遡っていたのでやはりこれを観ないわけにもいかずいったん観始めると止めるわけにはいかなくなってしまったのでした。

 

1997年製作放送の連続TVアニメなのですから今とは感覚が違うと書きたいところですが25年近く経ってもそこまで差異は感じられないのです。

むろんこれは年を取った者の感覚なので10代の少女が見ればどう思うのかはわからないのですが。

 

細部から言えば学生服はなくなってはいないし女子がスカートをはくのはいまだに当然でやっと「ズボン」が認められた学校が少しずつ出てきている、といったところでしょうか。髪の色や長さなどはアニメに描かれているものは完全に無理ですね。

この「校則厳守」の感覚はいつになったらなくなるのか、というより年々酷くなっているように思えるのは現実では自由を求める気持ちが強くなっているのに反比例して校則をきつくすることに学校の意義を見つけようとしているからなのでしょうか。

しかしもう学校という制度は終わってしまう予感がしてならないのです。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

この作品では男性と女性がはっきりと対立する存在として描かれてしまう。

と書くとおとしめているようですがそもそも日本の作品では男女は常に対立する存在として描かれ続けてきたようには思います。

そして唯一の接地点がセックスを伴う恋愛であり結婚であるために男女はそこを目指すしかなかったように思えてくるのです。

でもほんとうにそうなのか、とは思うのですが本作品はそこまでは到達できない、どころかもっとずっと前の地点までにも到達はできないままなのですね。

 

対立しているのが当然の男性と女性が唯一交じり合える「エンゲージ」で女性は「薔薇の花嫁」という資格を得ますがそれは同時に「従属」を意味しています。

冒頭から「薔薇の花嫁」とされるアンシーが西園寺の思うがままにされる姿にそれは現されています。

 

幼い頃、王子様と出会ったウテナ

「自分も王子さまになる」

と決意して自分を男性が使う「ボク」で呼び男装をするのですが実際は

「自分が王子さまになる」

であり永遠に苦しむ運命の王女を助けるためだったのだと知るくだりははっとさせられてしまいます。

現実の王子さまは王子を救うために己を犠牲にした王女を見捨ててしまったからです。

これは現実の男女関係に多々見られる現象です。

王子を男性、王女を女性に変えればその意味が解ります。

 

幼い頃、男性と出会ったウテナ

「自分も男性になる」

と決意して自分を男性が使う「ボク」で呼び男装をするのですが実際は

「自分が男性になる」

であり永遠に苦しむ運命の女性を助けるためだったのだと知るくだりははっとさせられてしまいます。

 

もちろん女性であるウテナが男性になる、わけではありません。

そのことに意義はないのです。

女性を真実に助け守れるか、という意義なのです。

 

女性は男性を助け守ってきましたがその逆はなかった、と述べているのが本作品の主旨と私には思えます。

ならば女性を助ける人になろう、というのがウテナなのです。

 

助けられる女性を表現するのがアンシーなのです。