以前冒頭のクレジット部分でフィルムの古さに恐れをなしてやめてしまっていたのですが中に入ってしまえばなんということなく鑑賞できました。同じような方は一歩入れば大丈夫です。
現在日本映画では考えられないほど豪奢裕福な映像でした。
モノクロームでありながら(というかそれゆえにか)艶やかとしか言えません。
ネタバレしますのでご注意を。
これは現在でもありうる感覚ですが本来なら恋して当然の若く愛らしい娘が目に入らず落ち着いた年かさの女性に心を奪われてしまう男の話なのでした。
しかし谷崎潤一郎原作のこの作品はそれだけで終わってしまうわけではなくなんとも不可思議な男女の関係に発展していきます。
そして現在ではあまりお目にかかれない上流階級な生活ぶり。
男が恋したお遊さまは源氏物語世界をコスプレしてお琴を弾くようなちょっと現世からは外れた感覚の女性でだからこそ男は「他にはいない」と惚れてしまったのです。
お見合い相手の女性も申し分ない愛らしいお嬢様なのにもかかわらず男はお遊さましか眼中にない。
このお遊さまと男の感じは『天井桟敷の人々』のガランスとバチストを重ねてしまいます。こんなお金持ちではないですが。
しかし違うのはバチストと本作の慎之助のそれぞれの妻のキャラクターでした。
バチストの思い人ガランスを心底嫌う妻ナタリーと違い本作では慎之助の妻になるお静は慎之助以上にお遊さまを愛しているのでした。
愛し合っているお遊さまと慎之助の橋渡しになろうと心を決め見せかけの夫婦になり「お遊さまを幸せにしてあげて」と頼むお静。
なんとも奇妙な三人の関係は次第に人の噂となっていきます。
お遊さまは財産家に嫁ぎすでに夫と死別した未亡人ですが跡継ぎである男子を産んでいるために不自由ない豪奢な暮らしを許されています。
しかしその子どもが病死し里帰りする機にさらに別の財産家にみそめらて再婚し優雅な生活を約束されました。
なんとも羨ましいようなあるいは悲しいような話です。
美しく教養がある良い家柄の女性だからこその縁なのでしょうがやはりこれはそうした女性が「物」として譲渡されていくだけであるとしか思えません。しかし当時の女性たちはそれを「仕方ない」としてその中で生きていくしかなかったのでありその中での「美」を見出すしかなかったのでしょう。
もしもこの三人が「それでもいい」と開き直って生きる選択肢もあるのではないかとは思うのですがそれではやはり日本の伝統的な儚さの美が失われてしまう、のでしょうか。