初めての鑑賞のつもりでしたが以前観たような気もします。
そしてこの映画がゲーテの『ファウスト』だということに今回気づきました。
この映画は一度観ていたのでしょう。なんとなくそんな気もします。たぶんあまりにも気持ち悪く記憶から抹消してしまったのかもしれません。
今観てもやはり最初から最後まで気分の悪い物語には違いないのですが主人公が言う通り以前とは違う見方ができました。しかしそれもまた愉快なものではないのでした。
『ファウスト』だと気づいたのはもう終盤になってからなのですがそのつもりで観ていけばなるほどと落ち着いて観れたのではないでしょうか。
ネタバレしますのでご注意を。
ゲーテの『ファウスト』は学問に失望した老学者ファウストが悪魔の手先メフィストフェレスと契約をします。若さを手に入れたファウストは純情な娘グレートヒェンと恋に落ちますが彼女は死んでしまうのです。
その後ファウストは様々な遍歴を経て魂を渡すことになる言葉「時よ止まれ、お前は美しい」という喜びの言葉を言ってしまいます。
メフィストはファウストの魂を手に入れたと嘲りますがその魂は先に亡くなったグレートヒェンによって救済されるのでした。
ところで私がかつて読んだのは子供向けの簡単な『ファウスト』でしたので余計に『アメリカン・ビューティー』と重ねやすいのです。
本作主人公レスターはファウストのような偉大な学者ではないですがかなり良い会社に勤めていて裕福な生活をしている、と言えそうです。ただその勤務能力を上司に認められず会社を辞めてしまう、というくだりはファウストの失望と重なります。
であればメフィストフェレスは誰だ、ということになりますが主人公の隣家に越してきたリッキーという少年なのではないでしょうか。
現代のファウストであるレスターは先に若きグレートヒェン=アンジェラ・ヘイズに出会います。(ヘイズはあの『ロリータ』の少女の名前)
そして現代のファウストは自分でエクササイズをして若返るのです。
さらに現代のメフィストフェレスはレスターにマリファナを吸わせて気分を大きくさせ「こんな仕事辞めてやる」と言わせてしまうわけです。
マリファナを通じてメフィストであるリッキー少年はレスターが変化していく道標になってしまうのですがリッキーの父親は親密な二人の様子を覗き見て彼らが「男色の関係にある」と思い込んでしまうのです。
過剰なほど「男性同性愛者」たちの行動を嫌悪するこの父親は実は自分自身がそうでありながらひた隠しにしてきた裏返しであるのが最後にわかるというカラクリが仕込まれていました。
ゲーテのファウストさながらに若きアンジェラに恋し彼女の魂が清らかであったのが判明します。
リッキーに「君は醜い」と言われて自暴自棄になったアンジェラは確かめるためにレスターを誘惑する筋書きになります。
レスターはそんなアンジェラに「きみは美しい」と喜びの声を上げるのです。
この言葉にアンジェラは救われそしてレスターに問いかけます。
「あなたは幸せなのか」と。
レスターは「とても幸せだ」と答えます。
これが死の契約の言葉でした。
彼はこの言葉で死んでしまいます。
文字通りレスター=ファウストの魂はアンジェラ=グレートヒェンによって救済されたのです。
リッキー=メフィストは彼の存在によってレスターを死に至らしめます。
この物語は『ファウスト』そのままなのです。
非常によく練られた脚本の優秀な映画だということはわかりました。
『アメリカン・ビューティー』というタイトルが恐ろしい皮肉だということもわかります。
それは家族、夫婦、親子、友人、という見せかけだけの美しさでその中身は必ずしもそうではないのでは、という問いかけです。
だからといってこの映画が好きになれるかどうかはまた別の話です。
本作は他にも様々なカラクリが仕掛けられている気がします。
その一つはケヴィン・スペイシーです。
16歳の美少女に恋してキスをしもう少しでセックスをしかけたという今最も嫌悪される役どころですがケヴィンはこのころすでに同性愛者であるのが周知されていて美少女にいかがわしい気持ちを持たないことがわかっていたからこその許せる配役だったのではないかと思うのです。
他にも本作では「男性同性愛者」がその薬味を効かせています。
リッキーとその父親に陰口を言われる男性パートナーたち、自身が同性愛だというのを隠すために暴力をふるい続ける父親とその暴力のために廃人同然の母親。
当時もしくは今も続くアメリカ社会の暗部を見せるためとはいえこうした描写だけで終わるのには苛立ちがあります。
もちろんその「苛立ち」を起こさせるのがこの映画の役目なのですが。
さて本作から20年近く経ってケヴィンは14歳の少年にセクハラをしたことで告発されました。
『アメリカン・ビューティー』は美少女ではなく美少年だったわけです。
同性愛者なので許されたであろう配役は年齢対象としては事実だったわけです。
そして親父が持った疑惑はマジだったというわけです。
その時の釈明で「私は同性愛者だ」とカミングアウトしたのですが「それと未成年に手を出すことは別の話だ」と逆に批判を浴びてしまいます。
もしこの時私が『アメリカン・ビューティー』をきちんと観ていたらどう思ったでしょうか。
そして観ていた人たちはきっと奇妙な感覚に陥ったのではないでしょうか。
今やっとずっと反発してきたこの映画を観てやはり奇妙な感覚を持ってしまいます。
社会意識を暴いたはずの映画が実は巧妙に真実を隠していた、というカラクリに気づかされたからです。
もう一度ケヴィン・スペイシー自身を映画にすべきなのかもしれません。
もっと恐ろしい辛い映画になるのでしょうが。