ガエル記

散策

『ガタカ』アンドリュー・ニコル

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再々鑑賞です。昨日まで観てきた『フランケンシュタイン・クロニクル』からつながる内容でもあります。

つまり言わば「神からあたえられし肉体の能力(寿命も含む)に人間は疑問を持つ」ということです。

フランケンシュタイン・クロニクル』では人間が神の御業であるはずの命の生成を己の手で行うことはできないのか、という疑問を持ち幾人かの死体を組み合わせて再生することでそれを可能にしようとするのです。

宗教の禁忌も相まってその所業に罪悪感を訴えます。

より新鮮な死体が必要となって殺害も行われてしまうのですがこれは現在の移植手術の過程で実際に行われている事実でもあるわけです。

 

本作『ガタカ』では持って生まれた遺伝子の優劣が人間の人生を決定する社会、という背景がまず示されます。

ここではもう人種の如何は差別対象ではなくなっており遺伝子の優劣のみが問われているのです。

とはいえこの社会では「子作り」の段階で夫婦の持つ遺伝子を最大限の可能性で選択することができるのです。

こうして生まれた人間は「適合者」として認可されますが無秩序に生まれてしまった人間たちの多くは様々に劣った要素を持ち「不適合者」と見なされてしまうのです。

主人公ヴィンセントは不適合者であり生まれつき心臓が弱く病気がちで体の発育も悪く適合者の弟といつも比較されてしまうのでした。

しかしヴィンセントは不適合者にはかなわない宇宙飛行士という夢をもちその夢をかなえるために凄まじい努力を重ねていくのです。

 

何度か観ているのですからこの映画にはそうしてしまう魅力があるのですが(例えば宇宙船が飛び立つ場面とか)私はこの映画に疑問を持っています。

こうした未来社会が来ないというわけではなくむしろ現在の社会がすでにこの映画の思想を持っていると思えます。

しかし競争社会この映画では遺伝子の競争社会の中でまともに争うことを肯定し目指す思考はあまり魅力を感じられません。

私はこの社会にあっても別の方向性を持つ思考を望みたいのです。

 

以下ネタバレしますのでご注意を。

 

 

夢に向かって努力するのは素晴らしいことですが、少なくともヴィンセントが選んだ道は私には虚しいものに思えます。

不適合者であるヴィンセントと対照的に優秀な遺伝子を持つ適合者ユージーン=ジェロームはヴィンセントと強いつながりをもつことになりラストで自らを死滅させることでさらなる同一化を果たすのですが私はむしろあのまま彼を抱っこして逃げ出すべきだったのではないかと思うのです。

 

ふたりの悲劇はふたりが住む社会が唯一で正しいと思い込んでしまったことではないでしょうか。

ヴィンセントが最後地球を離れたくないと思ったのは直感的に当たっているのです。

彼が望むものは宇宙にあるのではなく地球で自然に生きることだったのです。

 

作品自体あちこちに綻びも見えます。

そもそもヴィンセントが不適合者という割には見た目もそう悪くない、身長も健康も体力もあまり劣ってると思えないのは物足りない気もします。

 

ここまで科学が進んでいながらなぜユージーン=ジェロームは車椅子に乗るしかなかったのでしょうか。義足くらい簡単にできそうです。

ただ生存しているだけの植物人間の彼から遺伝子を取る、というのならわかるのですがあの状態でなら宇宙飛行士として充分活躍できそうです。ヴィンセントとジェロームの物語を作りたいがための設定としか思えません。

もちろんそうなのです。

 

この社会は間違っている、というのは誰もが思う感想でしょう。

しかしこの社会においても別の道を選ぶことができる、という示唆を少しでも与えて欲しかったというのが感想です。