2018年公開映画。監督のダンカン・スキルズDuncan Skilesは検索してもほとんどよくわからずとにかく長編映画はこれのみでスティーヴン・キングから賞賛されたということらしい。
これまではテレビドラマ制作をしていた新人監督と思われます。
などと調べたのはやはりとても気になる作品だったからですね。
以下ネタバレしますのでご注意を。
シリアルキラー作品、というのはもうすっかり定番ジャンルになってしまいました。目を引くために様々な残酷非道な殺人方法をあの手この手で描写してきた感もあります。
あまりにも込み入った変質者表現が行き詰まりになったのか最近はシンプルな変質者に戻って別の角度から切り込むことが求められてきたように思えます。
本作はまさにそういう新しい方向性を試みた作品ではないでしょうか。
厳格なキリスト教信者である父親が実はおぞましい連続殺人者だったという設定は基本線といえますが腰痛持ちでちょっとユーモラスな人格とも見えるキラー表現はなかなか面白く感じました。
しかも本作の決め手はその奇妙なギャップキラーを10代の息子からの視点で描いていることです。
且つガールフレンドになる少女が恋人というよりバディ的な感覚で主人公に寄り添っているのが今様です。
これはもう主人公タイラー役のチャーリ・プラマーの高い演技力をまず絶賛することになります。
厳格なキリスト教徒が多い小さな町でさらに厳格な両親のもとに生まれ育ったタイラーは体も細く精神もひ弱に見えます。ガールフレンドとのデートもうまくいかず車の中にあったおかしな写真ー女性を緊縛したエロ写真ーを見つけられ告げ口されてしまい友人たちからも怪訝な目で見られる羽目になってしまいます。つまり10代の男女でも過剰なほどタブー意識が強い町なのだと表現されるのです。
ここで「異教徒」とあだ名される少女が登場します。彼女は日曜日に教会に入らず少し離れた場所で人々を監視しているようなのです。タイラーの友人でこれもやや過剰気味の厳格少年は彼女を敵視しています。
その友人によるとその少女は5股をかけていて連続殺人に興味がある異端者なのです。
父親の命令のなすままだったひ弱少年タイラーは疑問を持ちます。デート相手が見つけた写真は父親の車から出てきたからです。
気弱なタイラーは目覚めたかのように連続殺人を追いかけていると言われる少女キャシーを追いかけますが逆にやり込められてしまいます。
しかしここからタイラーは変わっていくのです。
これはむしろ昔の懐かしい表現方法のようにも思えます。
連続殺人を殺人者の目ではなく純真な子供の目で追いかけていく。
何も知らなかった幼い少年が事件を追いかけていくことで成長していく。
しかし怖ろしいのはその疑念の相手が自分の父親だということです。これは昔の物語にはなかったように思えます。
「父親殺し」という概念があります。
男の子は自分のライバルでもある父親を乗り越えていくことで大人になるのだと。しかし本作ではその概念を実行することしかなかったと表現するのです。
もちろん常識としては私刑をするのではなく法の裁きに任せるべきだとも言えるのですが彼は母と妹を守るためにその道を進んだのです。
父親の言葉から彼自身もその父親から厳格な教育を受けていたと解ります。彼はその厳格な教えからくる厳格な人生を歩まざるを得ずその代償と自分に言い聞かせ女性たちを犠牲にしていきます。彼はその自分の中の取引を正当化しています。自分の行為は犯罪ではないと信じ、息子は父親に従属すべきと信じています。この異様な正当化はなんなのでしょうか。そのまま進んでいればいつかタイラーも父親と同じ行為を行っていたのかもしれない、のでしょうか。
タイラーは父親から虐待を受けていたわけではない、とも言えますが映画は彼が微妙な虐待を受けていたことを示唆します。
彼が父親より背が高くなったことで父親は羽交い絞めという行為で微妙に彼を牽制します。ハンマーをすれすれにちらつかせたり銃を持って息子の背後を歩いたりします。
「男同士の秘密だ」というような会話をすることで意味深なつながりを持とうとしたりするのも微妙な虐待を感じます。
こうした事柄はかつては父と息子で当然のつながりだとされたことなのですが現在では違和感としかいえません。
この映画はキングには評価されたものの他の批評では微妙な位置にあるようですが私は非常に価値のある作品だと思いました。
これからの映像表現の先駆けともいえるのではないでしょうか。
ちょうど今ネット配信ジャンプマンガで『タコピーの原罪』が話題ですがそれに通じるものも感じます。
つまり今まで繰り返されてきたなにかおぞましいもの、を断ち切る時期にきているという意味なのです。
大きな局面でいえば「ロシアのウクライナ侵攻」の現在にも通じていて
「今時、戦争などやめろ」
ということなのであります。