ガエル記

散策

『演劇1』想田和弘

演出家平田オリザ氏のドキュメンタリーと知って鑑賞。

この記事を書くためにスタッフを見て監督がこの前から感心していた想田和弘氏と解って驚きました。そうだったのかーどうりで面白かったのですね。

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

演劇も映画も好きなわりには(といっても演劇はわずかしか鑑賞していませんが)ほとんど知識がないのでこれから少しずつ勉強していきたいと思い立っての一作目でした。

映像の始めあたりで平田氏が

「演劇はイメージをみんなで共有すること」

というくだりがあります。

長縄跳びを幾人かでしていく演技をするのですが「縄」自体はない。

ふたりが「見えない=無い」長縄を回していくとその間に幾人かが「見えない=無い」縄に当たらないようにタイミングを取ってくぐっては跳ぶそしてタイミングを見計らって出ていく。

演者は回っている(はずの)長縄をイメージして頭や足に当たらぬよう気を付けて跳んでいるのです。

なのに観客はないはずの長縄が見えている。演者たちの回す腕と跳ぶタイミングや当たると痛いからそして他の人への配慮で当たらないように気を付けてるそのイメージがちゃんと伝わって長縄を感じることができるのです。

ゆえにひとりでも「縄なんてないじゃん」的な言動をすればそのイメージ共有は壊れてしまう。

 

この様子を観て説明を聞いているとちょっとゾッとしてきました。舞台の上の演劇を観客として観ているだけなら「おもしろい」で済むけど現実社会でもこうした「イメージの共有」は怖ろしい。怖ろしいけど事実我々はそのイメージ共有で生活してもいる。

例えば

交通ルールなんてイメージ共有がなければ事故多発です。

学校も会社もイメージを共有することで礼儀作法が存在し回っている。ひとりでもそのイメージを崩す人がいれば「和を乱す」となって阻害されあるいは罰が与えられるのです。

 

それだけでも演劇というのは現実を写し取ったものと言えるのでしょう。

 

ちょい前日本の映画監督で役者の演技に「違うんだよ。もっと自分を出して」「もっとがーっとやって」という罵声を繰り返している動画を見たのですが平田さんはクレームではなく自分で演じてみせている。台詞の小さな息継ぎやイントネーション区切り方伸ばし方をすべて把握しているのがわかります。

そこまでイメージを構築してしまうのが好きか嫌いかはまた別として自分の中で完全に世界が見えているのが凄い。

 

とはいえここで演じられている演劇を見たいかとなるとそうでもない。

 

続けて2を観たいと思います。