この方は・・・孫権????
もしそうなら表紙絵初ですが誰だかよくわからないw
ネタバレしますのでご注意を。
さて玄徳は蜀の王となって孔明と今後を話し合っていた。さしあたってのふたりの懸案は「治めてまだ日が浅い蜀に曹操が攻め込んできたら危険だ」ということであった。
孔明は「呉を動かして魏をひきつける」策略を講じる。
荊州三郡を確実に呉に返し磁極の険悪と利害を説き孫権に合肥の城を攻めさせるのです。曹操とて放ってはおけずそちらに目を向けるでしょう。
この重大な孫権説得の任務を自ら引き受けたのが伊籍であった。
この取引に孫権は声を荒げる。「以前も返すと言いながら関羽が頑として聞かなかったではないか」
伊籍はさらりと「呉が合肥を攻めてくだされば曹操は急いで漢中から都に引き上げます。その時玄徳はすかさず漢中を攻め取り関羽に任せます。そうなれば荊州全土を呉にお返しできます」と言ってのけた。
臣下の反論は出たものの孫権はこの条件を飲んだのであった。
荊州の三郡は呉に返され、呉は十万の兵を合肥攻略に差し向けた。
まずは合肥に食料を補給している皖城を攻める。
危ない危ないそんなのふりまわしちゃ甘寧。
しかしこのぶん回し攻撃が大将を直撃しあっという間に皖城は大混乱となって落城したのである。
こうして初戦は呉の大軍のあっけない勝利だった。
そして呉軍はその勢いで合肥城へと進んだのである。合肥城にはそれを迎え撃つほどの戦力はない。
そこへ曹操からの攻略法の手紙が届けられる。
そこには呉の大軍の出鼻をくじき防備を第一にせよ、と書かれていた。呉軍を勢いづかせたまま城に近づけるなということである。
張遼は李典に小師橋を切り落とさせみずから二千の兵を引き連れて城を出た。李典・楽進も二千の兵を引き連れて進む。大軍に対して奇襲に出るのだ。張遼の読みは早かった。
呉軍の先鋒軍は意気揚々と合肥城を目指してきた。
楽進軍は草むらにひそみ適当に戦ったら引き上げる作戦である。勢いに乗った呉の先鋒軍は孫権のいる中軍を置き去りにして深追いしていった。
大軍を抱えている孫権は少数部隊を甘く見た。
が、そこへ李典軍が駆け込んでくる。
先鋒隊は遠く離れてしまった。後方隊はまだ上陸していなかった。
孤立した孫権部隊は挟み撃ちにされた。ようやく上陸した後方隊が孫権に追いつく。
孫権を守るため二将軍が小師橋を渡って逃そうとしたが橋が壊されているのを知り馬でその川を飛び越え孫権は命を長らえた。
が残された中軍は張遼・李典の挟み撃ちで惨憺たる有様となったのである。後方隊も先鋒もわずかな曹軍の奇襲で信じられないほどの被害を受けてしまった。
孫権の衝撃は大きかった。初戦であまりも簡単に城を落としたことが慢心となったのだ。肝に銘じて忘れはせぬと孫権は誓った。
孫権はこの度の大敗に懲りず前にもまして軍備を整えているという。
曹操はここではまず蜀よりも呉を討とうと考える。
四十万の大軍を陸路と軍船でもって呉に向かわせたのだった。
これを孫権も迎え撃つ。
甘寧将軍は百騎でもって夜襲をかける策略をとった。
兜にアヒルの羽をつけ目印にした。
百騎のみの夜襲は功を奏した。曹軍は闇のなかで同士討ちとなってしまったのだ。
曹軍と呉軍のこの度の戦いは勝負が交互に行きつ戻りつする具合である。最後には総力戦となり両軍とも大きな損害を被り疲れ果てた。
孫権は和睦の使者を曹操の陣に送った。中央の府に毎年貢を献じるという条件で和睦は案外簡単に成立した。
だがこれが真の平和でないことは誰もが解っていた。お互いに再び軍備を整えるための和睦であった。
さて都に戻った曹操はさらにいっそうその権力を恣にした。曹操は魏王を名乗り王宮を建設。
建安二十一年十月魏王宮は完成した。
その完成を祝う祝宴のため各州に特色ある名物珍味を献上するよう通達を出した。
呉の孫権は温州蜜柑を四十荷人夫に担がせてはるばる都へ送った。
一行は都まではまだ千里もある途中で休憩をとった。そこへ通りがかったのが奇妙な老人である。
痩せてあごひげも長いその老人は「手伝ってやろう」とひとりの人夫の担い籠を背負って歩き始める。
しばらく歩くと老人は他の人夫に「疲れたようじゃのう。わしのを担げ」といって蜜柑の入っている荷を交換させる。同じことだろうと言いながらも交換するとなぜかそのかごは軽く楽に歩けた。
老人は次々と人夫たちの担ぐ籠を交換していく。そうして荷駄隊はついに魏王宮に到着した。
温州蜜柑が届いたと聞いた曹操は喜びひとつ所望した。自ら皮をむいて食べようとすると中身がない。
すごく嬉しそうな曹操である。こちらまでうれしくなる。が、
なんとからっぽだ。
どれもこれもぜんぶ皮ばかりだったのだ。風評被害。
怒った曹操は奉行を呼んで問いただした。
呼ばれた奉行にも見当がつかないがただひとつ温州蜜柑を運ぶ道中で奇妙な老人に出会ったことを知らせる。
その老人は曹操とは同郷の友で左慈と名乗ったと伝えた。しかし曹操には覚えはない。
そこへ「左慈と名乗る老人が大王にお目にかかりたいと参っておりまする」と側仕えが申し上げる。
曹操は会うことにした。
この左慈という老人は曹操の前にある温州蜜柑をひとつ欲しがり「こんなものくれてやる」と笑う曹操に果汁たっぷりの蜜柑をほおばって見せる。
さらに酒と肉を要求するので大甕に入った酒と大きな肉を持ってこさせると老人はあっという間に大甕の酒を飲み干し肉を食べつくしたのだ。
お主は仙術でも心得ているのかと問う曹操にその通りと答える左慈。左慈は曹操にわしと弟子となって蛾眉山で無限に生きる修業をなさらんか、と言い出す。
それも一理ある、と言いながら「だが天下はまだおさまっておらず余に代わって治められるものもいない」と答えると左慈は「いや劉備玄徳に任せれば大王よりもよかろう」と口にしたのだ。
さてさて左慈は牢に入れられ殴られても縛り上げられても七日間水も食事も与えられずとも平気でいた。
ついに魏王宮落成の大宴会が開かれた。そこへ左慈はゆったりと表れたのだ。
息を吹き替えて花を飾り曹操には不老の酒を差し上げましょうと言って盃に注ぐ。毒見をしましょうと言って左慈が半分飲んだものを曹操に出すと
薄気味悪いと曹操は盃を投げつけた。
するとそれは一羽の鶴となりあれよあれよという間に飛んだのだ。
曹操は老人を「捕えよ」と命じた。
曹操は左慈の人相書きを各地に巡らせると五百人の左慈がつかまり首をはねられた。
この時死体の山から一筋の煙が立ち上り左慈が鶴に乗って王宮の上を悠々と飛び回ったのだ。曹操の命で矢が射かけられたが左慈は高らかに笑い合図を送ると刎ねられた左慈の首が元通りになって彷徨い歩き始めいずこへともなく去っていった。
なんかラッコ鍋の尾形思い出した。
その夜から曹操は具合が悪くなり寝込んでしまった。薬を飲んでも良くならない曹操は易で占ってほしいと天文監察官許芝に頼む。許芝は「それなら管輅がよろしゅうございましょう」と彼が若死にしてしまうはずだった青年を救う話をする。
赤い上衣の方は南斗星、白い方は北斗星、北斗は死をしるしなんとは生をしるす。
南斗星さんがかっこいい。
こうして曹操は管輅を呼び病を占ってもらうと「お体の歩合が悪いのは気からきたもの」と答え曹操は気が晴れてくる。
ついでにと呉と蜀を占わせると「呉はひとりの大将を失い、蜀は兵気盛んで近日他の界を侵すこと必然」と答えた。
曹操生き生きしてる。
とはいえ管輅の占いは「どうも素直には信じられん」と思ったのであるがなんと「呉の魯粛が急死した」との知らせが入り「蜀軍が漢中に侵攻中」との報告があった。
曹操は急ぎ漢中へ出陣を決めたが管輅は曹操の遠征を止める。都で正月早々火の禍あるというのだ。
曹操は自らの遠征は取りやめ、曹洪に五万騎を授けて漢中へ向かわせ、夏侯惇に都の郊外で禍に備えさせる。
そして王必を近衛兵の総督とした。
これに対して物申す男がいた。
司馬仲達だ。初登場。
仲達は王必が酒にだらしないと心配したが曹操は知っているがまずまず忠実に勤めて来た者なのでそのくらいの役を割り当ててやりたいと言いこれには仲達も納得した。
やがて正月がきた。
曹操暗殺を企てる者たちがいた。
曹操の行動に何の意味があるかを考え「皇帝の位を狙っての行動か」と推理したのだ。
これは管輅が占った正月の火の禍を案じての行動なのだが。
彼らは近衛兵を味方につけ帝を守らせ劉備玄徳と連絡をとって援助を求めて曹操を討つ、と策謀していた。
そのためには近衛兵総督となった王必をなんとかせねばならない。
これには王必と仲のいい金褘の屋敷を訪れ彼の心を試した。
金褘もまた彼らと同じく漢朝への忠義を強く持っている男であった。
そして曹操暗殺の企てを話し伝えた。
決行の日は一月十五日。
遊び楽しむ日となっている。
王必は酒をくらって警備などしていないだろう。王必の陣屋に火を放ちなだれ込んで王必を殺し城外にも火を放つ。
金褘・耿紀・韋晃の三人は同志を集め新春十五日の決行日を前に着々とその準備を整えはじめた。
不思議な仙人の話は孫策の時にもありましたね。
あれも奇妙な話で素晴らしい英雄であった孫策が突然の仙人の登場に苛立ち排除しようと固執したために逆に呪い殺されてしまうといった話でしたね。
曹操も排除しようとはするのですが排除できなかったために助かっているような話ではあります。そこも曹操の運の強さ、なのでしょうか。