ここを読んでいると玄徳の思想がいかに大切だったかということがわかる。
三義兄弟は三人でいたからこそ強くあり得たのだと思わされる。
ネタバレしますのでご注意を。
留守中に奪われた荊州を取り戻そうと突き進む関羽だったが「荊州領民」の旗を掲げた集団に取り囲まれてしまう。
「おーい息子はいるか」「おとういるか」と家族に呼びかけられた関羽軍の兵士たちはまたも心が揺らぐ。
これに関羽は「どうした、かかれ!」と命じるが兵士たちは「父や弟と戦うのはいやじゃ」と槍を投げ捨て家族のもとへ逃げ出してしまった。
これには関羽と言えどどうするすべもなかった。
関平は「この近くに無人の麦城がございます」と父に呼びかけ関羽と残った五百の兵はそこへひた走った。
背後からは家族と再会したのであろう歓声が湧き上がっていた。
打ち捨てられた様子の麦城に逃げ込んだ関羽軍。
周囲は呉の大軍に取り囲まれていた。
その義父と義兄弟である関羽の危機となれば絶対に駆け付けるはず、であった。
ところが劉封は関羽からの手紙を読んで孟達に相談し孟達から理屈をもって反対されそのまま廖化に「父上に届けてくれ」と答えてしまう。
この時の廖化の憤りを考えてしまう。
劉封のその後を知っている自分としてはこの時孟達に相談すること自体心を怪しんでしまうし相談して反対されたとしても自分だけでも(せめて食糧を持って)走るべきだった。
というか。
関羽を見殺しにしたとして(たとえ関羽が助かるようなことがあったとしても)自分が許されると思うのが不思議でしかない。
そう言えばそもそも関羽は玄徳が劉封を養子にするのに反対だったことを思い出す。
横山三国志ではそうした詳細は描かれないのだがもしかしたら関羽と劉封は心の通う間柄ではなかったのかもしれない。
そして義父玄徳がまさか自分を殺めるようなことはすまい、と信じ切っていたのかもしれない。それくらい可愛がられていたのかもしれない、と想像する。
さらに玄徳の関羽とのつながりがそこまで強いとは自分より大切だとは思いが至らなかったのかもしれない。
描かれてはいないので妄想するしかないw
関羽は来ない援軍を待ち続け戦い続けていた。
五百の兵士たちは大半が負傷し食糧はわずかであった。
関羽に対し呉に降れと説得に来たのだった。
むろん関羽が漢中王・玄徳に背くはずがなく「城が落ちたならば死あるのみ」と答えるだけであった。
再び荊州の肉親から兵士たちに呼びかけて逃亡を勧めれば食糧も兵もなくなった関羽は城を脱出するしかない。あえて逃げやすい道を作って伏兵を置けば関羽を捕えられる。
関羽を前にして孫権は再び降伏を求めるがそれは無理なことであった。
側近は孫権に「いま息の根を止めねば呉に禍を残しましょう」と言い孫権も同意した。
麦城で待ち続ける者たちにも関羽の死が告げられた。
王甫は自害し関羽にずっと付き従ってきた周倉も遅れまじと後を追った。
かくて最後の拠点麦城も呉のものとなったのである。
呉は荊州・襄陽の地を手に入れた。
だが関羽の死を人々は深く惜しみいろいろな噂を作り出した。
関羽の愛馬赤兎馬は関羽の死後まぐさを食べなくなり死んだとか。
荊州玉泉山の庵に住む普静という僧の前に関羽の霊が現れ無念を訴えたとか。
人々はそれを関羽の呪いで死んだと噂し合ったのである。
(確かにこれはどういうことなのか。呂蒙はそれほど関羽の死に恐れをなして精神を病んだのか、としか思えない)
その後、孫権は長老から「関羽の首を刎ねたのは浅はかだった」と忠告されてしまう。
「桃園の誓い」によって結ばれた三義兄弟は死ぬ時も一緒だと誓い合ったのだ。
関羽の死が玄徳の耳に入れば玄徳・張飛は死を覚悟で攻め入って参りましょう。
そして蜀・呉のどちらが勝ってももうひとつも大きく傷つく。そこを曹操は一気に攻め滅ぼしにかかってくるはず。
これを聞いた孫権は大いに惑い対策を問う。
もともと関羽を討とうと言い出したのは曹操。それゆえ首をお届けしましたと。ならば関羽の首を打った張本人は曹操ということになります。蜀の玄徳は魏に向かって兵力を進めるでしょう。
関羽の首を見て曹操は喜んだが司馬懿は反対し呉の考えを曹操に伝える。
「これは呉が送ってきた大きな禍である」と。
曹操は気づきこの首を呉に突き返せ、と命じたがこれも司馬懿は反対した。
「大王、首を返せば大王の度量が小さくなりまする」
そして「この首をねんごろに葬るのです。国葬のような盛大さで。禍を転じて蜀に恩を売るのです」
曹操はこれに同意し関羽を国葬するとして荊王の位を与えるとした。そして葬儀を司馬懿に任せたのである。
「それにしても関羽め。首になっても二国を震え上がらせおるわ」
そこへ漢中王玄徳が現れ「関羽が夢枕に立つのじゃ」と訴えた。
これに呼応するかのように夜更けにもかかわらず馬良・伊籍が到着し関羽将軍の援軍の要請を伝える。
加えて廖化によって麦城で関羽が孤立しているとの報告が入る。玄徳がなぜ近くの劉封たちに知らせぬかと問うと廖化は断られ成都へ行けと言われた旨を告げた。
玄徳は明日にでも一軍を率いて行くと言い孔明もまた救いに参りますと答えた。
ところが明朝、玄徳が出立しようとする時「関羽将軍が呉に捕らえられ打ち首になった」という急報が入ったのだ。
関羽打ち首の報を玄徳はどうしても信じたくなかった。そのままうち崩れ泣き伏したのである。
孔明は漢中王を寝室へと誘わせた。
玄徳はその日から三日間食も取らず寝込んでしまった。
孔明は玄徳の寝室へと向かう。
そして玄徳に対し厳しく諫めた。
さらに呉が関羽打ち首の科を魏に押し付けようとして首を送ったこと、そして魏が王侯の礼を以て国葬にしたことを伝えた。
玄徳は起き上がり「わしは呉と共に天はいただかぬぞ」と告げた。
一国をあずかる王として軽挙は慎まねばならないと玄徳は孔明に感謝した。
玄徳は皆の前に立ち関羽の弔いを言い渡す。
玄徳は張飛を押しとどめ「軍規に背けばわしの手でおまえも討たなければならなくなる。そのような悲しいことをさせないでくれ」とうつむいた。
「わかったよ義兄」張飛もまたうつむいて去るのであった。
桃園の誓いから力を合わせてきた三人が長い時間を経て夢のような国王の地位を得て誓いを守ることができなくなってしまう。
これが創作物語であれば無理やりにでも辻褄を合わせてしまうのだろうけれども。
(まあ演義なのでどこからどこまで創作か史実かわかってはいないのだけど)
関羽の恐怖から解放された曹操は洛陽に凱旋しのんびりとした暇を楽しんでいた。
戦の無い日々を過ごしていた曹操に突如めまいが襲う。
頭痛とめまいが連日続き曹操は弱っていった。
気持ちを変えようと曹操は新居を計画するがそれを建築するために神木を必要とした。
が、人夫たちは神木の祟りを怖れ手を出すのを嫌がる。曹操は自ら出向きその神木を斬って「木の精が祟るならこの曹操に祟るであろう」と断言した。
曹操が斬りつけた場所から血のような樹液がほとばしる。
「木の祟りがあるとすれば余にふりかかる。安心して切るがいい」と言い残して曹操は去った。
その帰り道曹操は苦しみだす。
熱が上がりその日から曹操の容態は日ましに悪くなっていった。人々は神木の祟りと噂しあった。
名医華佗が呼ばれる。華佗は「この病を治すためには脳を切り開き病巣を切り除くしかない」と伝える。恐ろしい手術に反論する曹操に華佗は「関羽の腕の手術」をもって説いたが曹操は華佗が関羽と親しかったのかと疎み仇を討とうとしたなと毒づいて華佗を投獄した。
これによって曹操の命は縮まったといえよう。華佗はまもなく処刑されたのである。
この投獄時、華佗は獄中で親切にしてくれた牢番に秘伝の医書を譲った。
牢番はこれで名医になれると牢番をやめて家に帰る。
ところが牢番の妻はこれを聞いた後、牢番が眠っている間にその秘伝の書を焼いてしまうのだ。
目覚めて怒った牢番に妻は「これであなたが捕らわれて処刑されてしまうのなら妻として見過ごすわけには参りません」と答えるのであった。
こうして天下の名医の秘書は世に伝わることなく灰となったのである。
病魔に侵され弱っていく曹操に呉からの使者が皇帝になることを勧めるが曹操はこれを断る。
曹操の容態は悪化し夜ごと幻想を見て苦しんだ。
「長い戦いの人生であった」と言い残し曹操は息を引き取った。
関羽に続き曹操の死、という重い回だったので時間が来てしまいました。
42巻はもう少しあるのですがここでいったん筆をおきます。
今夜続きを書けるかもしれません。