ガエル記

散策

あなたはロマンチストですか?

「ロマンチスト」そして「ロマンチック」を考えてみました。無論、これは知識に乏しい戯言です。

 

「ロマンチック」ってなんでしょうか。

日本語でこの言葉を考えると奇妙な文法が現れます。

「ロマン」というと「男のロマン」に代表される骨太な壮大な夢の意味。

「ロマンチック」と「ロマン(骨太)」に「チック(的な)」をつけると逆に甘ったれた女の夢想の意味。

「ロマンチスト」というのはその両方を兼ねているようであり

「ロマンチシズム」となると真面目にそれらを考えはじめ

ロマン主義」になるとそれらとまったく違うひとつのイデオロギーとして難解なものになってきます。

 

「ロマン」の語尾を変えただけで全然違う意味合いを持ってしまう不思議な言葉です。

 

私は英語を含む外国語でそれを考える知識もないし日本語で考えるのもまた腹立たしいので勝手にそれらをごっちゃにした自己流得手勝手に考えてみました。

ので、以下の文章の意味は滅茶苦茶です。

 

日本人そして日本の創作ものはロマンチックではないな、とよく思います。

逆に海外のものはロマンチックだなと憧れることがままあります。

この時私はなにを以って「ロマンチックかそうでないか」を判断しているのでしょうか。私の気持ちなので誰にもわからないはずですね。

 

さてもう一度

「ロマンチック」ってなんでしょうか。

なぜ私は「日本人の作品はロマンチックではない」そして「海外の作品はロマンチックなものが多い」と決めつけているのでしょうか。

 

とはいえ日本の作品にも「ロマンチックだな」と思うものがたまにあります。

そこにヒントがあるかもです。

その一つは『雨月物語』の中の「菊花の契り」です。

義兄弟の契り(衆道)を結んだ男性ふたりの物語です。ある日、片方が遠方へ行くことになるのですが必ず九月九日(菊の節句)に戻ってくることを約束します。

ところが彼は遠方で監禁され約束の日に戻れない状態になってしまいます。必ず帰るという約束を破ることを憂い彼は自死して幽霊となって愛する人の待つ家に戻る、という話です。

この物語に「約束を絶対に守りたいという愛」を感じて泣く人と「馬鹿々々しい。約束を破って後日生きて帰ればいいじゃないか」という人がいるでしょう。

前者はロマンチストであり、後者は現実主義です。

ところで「菊花の契り」は日本では珍しいロマンチックを選択していると私は思います。

彼にとって最も大切なのは愛する人との約束(契り)であり、その約束を阻むのは「監禁」でした。そして「監禁」という拘束から解き放たれるためには命を絶って霊魂となって遠路を一気に飛ぶしかなかったのです。

 

ここに「ロマンチック」の鍵があるような気がします。

人間にとって約束は大切なことです。それが愛する人との間にあることなら更にであり、時には命に代えてもということになるのです。

しかし現実的にそれが無駄無意味と思えることもあるかもしれません。そのどちらを選択するかなのです。

 

日本人はよく「約束を破る」という物語を作品にします。身近であれば

「次の日曜日は必ず一緒に遊園地に連れて行くぞ」

という父と子の約束が「急な仕事が入ったんだ。仕方ない」という流れで破るのを「人生とはこういうものだ。男の仕事とはこういうものだ」という価値観で表現するのを好みます。恋人とのデートの約束もしかりです。

ロマンチックな物語なら父親は「約束も守れない仕事ならもう辞めてきたよ」となるわけです。

恋人との約束の時間に残業を言いつけられても「恋人は代わりがいないからな」とデートに向かうのがロマンチックですが日本人にこの行動を「当たり前」と思う人は少ないわけで従って「日本人はロマンチックではなく、ロマンチックな作品は少ない」ということになるのです。

 

貴族や武士、という地位にありながら身分の違う女性を好きになってすべてを捨てて恋に走る、という物語よりも泣く泣く別れて好きではない人と結婚する話を好みます。

愛する人との約束よりも社会・会社・学校・家族などのルール・規則を破ることはできない、という苦痛を選ぶ物語をどうしても大切にしてしまうのです。

 

先日観たフランスのアニメ映画『ディリリとパリの時間旅行』はまさしくロマンチックを絵に描いたような作品でした。肌の色が違う小さな少女ディリリは「誘拐されている少女たちを必ず救い出す」と誓い、彼女に賛同する人々と共にその約束を果たしていく物語です。

日本ではそんなルール無視の作品は作れない、とまた思ってしまう自分も日本人なのです。

ディリリはすべての「ルールを無視」してロマンチックを優先します。

 

人間は幸福になりたいと願い幸福になろうと努力し続けます。

この「私は幸福になりたい。そしてあなたを幸せにします」という言葉は最も「ロマンチック」でもあります。

ロマンチックは理想であり夢だからです。

日本人も「幸福になりたいし、愛する人を幸福にしたい」はずですがロマンチックでない国民性は幸福を遠ざけます。

なぜなら日本人は「ロマンチックよりもルールが大事」だからです。

 

ところで日本はあまりにも奇妙なルールでがんじがらめになっています。日本人自身それに苦しみ時には死んでしまうのですが、それでもルールを破ることができずにいます。

そしてルールを守っている自分たちを好んでいます。それがためにますますルールは奇妙になり強固になっていくのです。

残業ルールで過労死する日本人、性的虐待で女性が苦しめられていても法律は変わらず、男尊女卑社会だと言われてもそのルールを壊せない。

理想を大切にするロマンチストならルールを無視することも壊すこともできますが、日本人にとって「ロマンチスト」というのは馬鹿を意味しているにすぎません。それは自分たちの基盤を覆してしまう怖ろしいイデオロギーなのです。

 

本当でしょうか。

 

私が日本の作品の中でとてもロマンチックだと思うのは永島慎二の『少年期たち』の一作品「夏休み」です。

 

夏休みのある日、一人きりで歩いていた少年の前でどこのだれかは知らないおじいさんがいきなり倒れて死んでしまうのです。そのおじいさんは息を引き取る前に「私が死んだら海に捨てて欲しい」と少年に頼むのでした。

少年は日ごろからぱっとしない存在で誰からも褒められないタイプなのですがその約束だけは守りたいと思いおじいさんの遺体を手押し車に乗せて一人で運ぶのです。暑い夏の日なのですぐにおじいさんは臭いだし虫がたかってくるのですが少年は必死で海に向かうのでした。

 

この少年の行為はルール無視です。しかもやったからと言って何か得るものがあるわけでもないのです。危険でもあり実に馬鹿々々しいことです。

 

この話をロマンチックと思うかそうでないか。

そこに答えがあるように思えます。