ガエル記

散策

『未知との遭遇』スティーヴン・スピルバーグ

どうしようもなく『未知との遭遇』を観たくなって鑑賞。

実は公開当初観た時はまったく面白いと思えなくて「何わかっていること(宇宙人はいるってこと)を長々とやってるんだか」と思っていました。

断然『スターウォーズ』派だったし今でもSWは好きですがそれはそれとして今になってやっと『未知との遭遇』の面白さが解ってきたのでした。

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

 

 

まずはなんといっても秀逸導入部。

トリュフォー演じるラコーム博士一行が凄まじい砂埃の中から現れる。場所はメキシコの砂漠。ここでなにかとんでもないことが起きて調査隊がはいったのだ。

なにかが始まる予感である。

ラコーム博士はフランス人でフランス語しか話せない。アメリカ人とも当地のスペイン語も通じない。

ここで「異なる言語の意思疎通の難しさ」がさりげなく予告されている。異国人が会話するには通訳が必要なのだ。

なぜ調査隊の博士役をフランス語しか話せないトリュフォーが演じたのか(彼は英語が苦手だというのが有名だった)という疑問は逆におかしいのだ。彼が英語圏の人ではなかったからこそこの役にぴったりだったのだ。

 

近年の『メッセージ』でもファーストコンタクトこそが重要な題材となっている。

そして『地球の静止する日』でも友好的な宇宙人との会話が理知的に語られていた。

私はつい先日この1951年製作『地球の静止する日』を鑑賞できたのだけどその明確な意志に感嘆しました。『未知との遭遇』はきっとこの作品に影響を受けている。

政府が主役になるのではなく『地球』では少年とその母親が宇宙人とのコンタクトを成し遂げる。『未知』で主人公が有能な軍人でも優秀な学者でもなくしがない電気修理工である父親だったのはここからきているに違いない。

『未知』では調査隊や政府の動向も描かれていくがメインストーリーは一人の父親と別の母子のどたばた劇というちょっと捻った設定になっている。何故主人公の家族だけにしなかったのか。

主人公の妻は「未知から選ばれた存在」もしくは「未知を望む存在」ではなかったのだろう。確かに夫婦そろっておかしくなるものでもないだろう。

主人公たちだけでなく幾人かの「選ばれた存在」がいるのも面白い。

 

とはいえ「選ばれた存在」の主人公の懊悩の日々はなかなかじれったい。妻が逃げ出すのも当然だ。未知に取り憑かれた主人公は家と家族をめちゃくちゃにしてしまう。もう一人の選ばれた存在である母子は子どもの方をさらわれてしまう。

そうした普通の人々がとんでもない力に引き寄せられていく様子が丹念に描かれていくのが本作である。

まあここで若かりし私は忍耐できなかったのだけどこの懊悩の描写こそが面白いのだ。やっぱり解る人と解らない人そして時期というものがあるのだ。

 

それにしても主人公の取り憑かれ方が凄まじい。なぜここまで苦しんでいるんだろう。

その苦しみは妻にはまったく共感できないのだが同じ選ばれし者であるジリアンには理解できるのだ。

 

彼らは取り憑かれたようにデビルスタワーに向かいそこで未知との会話を体験する。

ここの描写は素晴らしい。こんなに素晴らしい対話シーンは他で観たことがない。これからもありうるだろうか、とさえ思える。

ラコーム博士が演出していく宇宙人との対話。音楽によるコミュニケーション。

今観てもわくわくします。

 

スピルバーグ作品は数あれ本作はやはり彼の代名詞であることに間違いないと思う。