ガエル記

散策

『三国志』再び 横山光輝 四十五巻

 

 

ネタバレしますのでご注意を。

 

 

冒頭、呉の重要な城・濡須城を守る朱桓について語られる。27歳の若き武将が自信満々に魏軍からの防御攻略を論じる。

あまりにも尊大なので失敗談かなと思っていたら計画通りに魏の曹仁軍をやっつけてしまったので驚きだった。

朱桓さん、史実思い上がったところはあるが立派な人物だったらしい。

 

さらに曹丕率いる魏軍は苦戦していく。

炎天下疫病が流行りだし、南郡に攻め入った曹真軍は陸遜諸葛瑾の軍で大敗。曹休軍も呂範軍に撃滅。呉軍は蜀軍との戦いで疲弊しているはずと思い込んでいた曹丕の予想は外れ帰り道も危くなる。

やむなく曹丕は全軍に引き揚げを命じた。

これより呉と魏は不和となった。

 

白帝城に逃げ込んだ玄徳は体の調子をくずしていた。呉に大敗し蜀の将兵の多くを失った心労が大きな原因となっていた。

玄徳は自分の死を覚り孔明たちを呼び寄せて遺言をした。

孔明に感謝の意を伝え太子劉禅が帝たる素質を備えているものなら助けて欲しいが帝王の器でないのなら孔明自身が蜀の帝となってほしい、と。

我が子を助けて欲しいというのはよくある願いだが才能がない場合は丞相自身に皇帝になってくれという遺言は玄徳ならではだと思われる。

 

そして最期、関羽張飛が玄徳アニキに「早く来いとせかしおる」という場面は何度読んでも涙が出てきて困る。

こうして劉備関羽張飛の義三兄弟の物語は終わった。

ここからは劉備玄徳の意志を継いで孤軍奮闘する孔明の物語になる。

綺羅星の如き勇者たちがいなくなった後、この天才軍師は乏しい国力で苦闘していくこととなる。

 

玄徳の死後、太子劉禅が蜀の皇帝となる。

魏帝曹丕は蜀に攻め入るのは今が好機と喜ぶ。反対する重臣に逆らうように声をあげたのが司馬懿仲達であった。

司馬懿は「五路の大軍」を用いて今こそ攻める時という。鮮卑、南蛮、呉の孫権、元蜀の孟達、そして魏の曹真将軍を大都督として五方向から攻めるというのである。

この報告を受けた劉禅は怯える。

だが孔明は病気で出仕していない。劉禅は自ら孔明邸へ赴き孔明に問うことにした。

 

実は孔明は病気と称して自邸に籠りながらもすでに司馬懿のいう「五路の大軍」の四路をすでに解決していたのである。

残るは呉の動き。孔明は呉を動かさないために昔の恨みを水に流し蜀と呉が国交回復するための大役を誰に頼むか、と考えあぐねていたのであった。

その答えは意外なところにあった。

孔明の説明を聞いて安堵した劉禅が笑顔で現れたのを見てひとりの従者が声をあげて笑ったのである。

これを見た孔明はその男に名前と官職を問うた。

蜀の戸籍を調査する鄧芝という。仕事に不満はないらしい。

さらに三国の関係を問うと力の大きな魏に対しては今は討つべきではなく時期を待ち呉と連合して長い目でものを見たほうがよいと考えまする、と答える。

孔明はこの男に使者を頼むことに決める。

 

司馬懿の「五路大軍」は孔明の対策で崩れ落ちていく。

呉はさすがに思ったように同盟を結ぶわけもなく様子見を決め込んだ。

遼東の胡夷軍は馬超に蹴散らされ南蛮勢は魏延の擬兵の計で潰乱し元蜀の孟達は親友と戦うのを嫌がって仮病を使って戦わず曹真軍は趙雲によって追われてしまった。

この様子を見た孫権は結局呉軍を進めるのはやめたのである。

 

さて孔明が使者に選んだ鄧芝は呉と同盟を結ぶため決死の覚悟で呉に赴いた。

孫権は通路には武器を持った兵士を並べ鼎を置いて煮えたぎった油を用意させた。

そうして蜀の使者・鄧芝を迎え入れたのである。

ずらりと並んだ兵士の間を通り行く先には煮えたぎった油甕が脅すように置かれている。さらに孫権は頭ごなしに鄧芝を怒鳴りつけた。

が、鄧芝は孫権の度量の狭さを笑ってみせたのである。

絶句した孫権は兵士を下がらせる。

鄧芝は蜀と呉が手を結ぶことで天下統一できると論じた。さらに孫権が詭弁にあざむかれまいというお気持ちが先に立っておられるようだと言い本心から両国の平和を願い一命をかけて参った、口先でない証拠をお見せいたすと言い放つと煮えたぎった油甕に向かって駆けだした。

孫権は慌ててこれを止めさせ「ご使者わかった」と叫んだ。

孫権は鄧芝を見て蜀の前途に不安はないとして丁寧にもてなした。

鄧芝の死を覚悟の熱意は孫権の心を動かしたのである。

 

「五路大軍」作戦が大失敗した魏曹丕は蜀呉同盟を聞きすぐに出陣すると言い出す。

うーむ??

いったいこのあたりの曹丕の思考がまったくわからん。

と言っても現在現実で戦争している国の思考もわからんからそういうものなのか。

そしていきなり「五路大軍」作戦を言い出して大敗した司馬懿がけろっとして「戦船を作らねばなりません」とか言い出しているのもわからなすぎる。

ここだけ見てると司馬懿がマヌケとしか思えない。

司馬懿の意見に従った曹丕は三千隻の戦船を整え長蛇の列を作って呉に向かう。その様は浮かべる長城であった。

これを聞いた孫権は慌てまたも陸遜を呼ぼうとするが重臣陸遜荊州を守っていて動かしてはならないと諫められ徐盛に頼むことになる。

ところがここで孫権の甥にあたる孫韶が反抗的な態度をとるとかでもめ事が起き孫権自ら走って甥っ子の助命をせねばならない。

が、この甥っ子が頑固で絶対謝らないし自分の作戦が正しいと言い張り飛び出していく。

どうなることかと思っていたら壮大な魏の曹丕軍は徐盛の防御施設の目くらましにまんまとはまってしまいそこへ嵐がやってきて長城の如き戦船艦隊は大揺れとなって曹丕は船酔い。趙雲長安目指して突撃という報を受けて慌てだし、そこへあの頑固者孫韶が魏軍に突っ込んできて陣営を焼き払った。さらに逃げ出したところにも呉の伏兵が待ち構え魏の名将張遼が戦死する羽目になってしまう。

この時の魏の損害は曹操赤壁の大敗に匹敵するものだった。

いったい何をやってるのか司馬懿曹丕

これで国が滅亡しないのだからよくわからない。

 

結果最初の徐盛と孫韶の争いはどこへやら。

そろって戦功をあげたのである。

どういう話なのこれ????そういうこともあるさってこと?

 

さてその頃、蜀にも一大事が起こっていた。

南蛮王の孟獲が十万の軍勢をもって益州南方に迫ったのである。

長安を奪おうとしていた趙雲はやむなく蜀に引き返した。

さらに南蛮平定のため孔明自身が五十万の兵を率いて益州南部へ向かうこととなった。

ここへ関羽将軍の三男・関索が参加する。

益州南部に入ると山川は厳しくその気候も暑く旅は困難を極めた。

 

孔明の目的は武力だけでなく仁によって南蛮人を心服させることであった。