ガエル記

散策

『史記』横山光輝 ② 再読 第1話「復讐の鬼/前編後編」

伍子胥の物語です。

横山光輝史記』の中でも特に印象が強かったものでした。

この表紙絵からして骸骨の前で鞭を持って立つ壮絶さが描かれています。

 

ネタバレします。

 

 

春秋時代(戦国時代)始まる。

楚の二十七代平王(在位紀元前528~516)は横暴な王であった。

そこにいた伍一族は名門の家柄だった。

その一人が伍子胥である。名は員といった。

父の伍奢は平王の太子・建の侍従長を務めている人格者であったがその副侍従長である費無忌は常々から平王の側近になりたいという野望を持っている男だった。

事件はこの男から始まる。

 

ある時、太子・建の嫁を秦から迎えることとなり迎えにいった費無忌はその美しい姫を見て太子ではなく平王に勧めて取り入ろうと考えたのだ。

平王は費無忌の思惑通りその姫を気に入り側室として太子・建には別の女性を娶らせたのだった。

結果、費無忌は太子付きから平王の側近となり権力を握ったのである。

ただ怖れるのは平王の死後、太子が即位した時の自分への措置だ。そこで費無忌は平王に太子の中傷をし続けた。ついに平王は太子を疎み辺境の地へと追いやった。

費無忌はさらに太子が父・平王を討伐しようと謀反を起こしていると提言した。

平王は怒って侍従長で教育係でもある伍奢を呼び問いただした。費無忌は側で口添えをする。

「謀反を防ぐには先手を取らねばなりませぬ」

平王は何の罪もない伍奢を獄にいれ二人の息子を呼びよせよと命じた。もろともに殺すためである。

 

伍奢の長男・伍尚は思いやり深い人格で父と共に処刑される覚悟で赴くが次男の伍子胥は気性が激しくそのまま従うような人間ではなかった。

父と兄はそれを知っており無実で処刑されながら伍子胥が必ず復讐を果たすだろうと笑うのだった。

 

伍子胥は捕らえに来た兵士に矢を射かけ呉へと逃亡する。着の身着のままやっとの思いで長江にたどり着く。

向こう岸は呉の領内だ。しかし長江は広い。

伍子胥は近くにいた漁師に向こう岸まで船に乗せてくれないかと頼む。漁師は汚れ切った伍子胥の姿を見ても何も言わずに渡ってくれた。

せめてもの礼にと唯一持っていた剣を百金はすると言って差し出すが漁師はいらないという。

伍子胥を捕らえた者には恩賞として扶持五万石と爵位を与えるというお触れが出ているのだ。こっちがその気なら百金どころではない」と漁師は言って去っていったのだった。

あまりにも良い話で泣きそうだ。

伍子胥はこうしてさらに物乞いをし草の根をかじって旅を続けた。飢えて倒れることもあった。

だが、平王への怒りが伍子胥を支えていたのだった。

 

呉の都についた伍子胥は公子光に会い客人となった。伍子胥が優れた人物であるのは知れ渡っていたのだ。

ここで伍子胥は父と兄の処刑を知って泣く。

 

伍子胥は公子光の口利きで呉王に拝謁し楚の国との戦争時には使ってくださいと頼む。呉王は肯きながらも自国力が増してからの話だとした。

それから三年伍子胥は無為に過ごさねばならなかった。

 

ここまで読んできて思うのは何かを成し遂げるために(それが復讐だとしても)本当に時間がかかることだ。

時代のせいもあるが移動にも情報にも長い時間が必要だ。その間にも志を持ち続けなければならない。ってだから重耳はもう忘れてたんだけどwww

 

ところがここで楚と呉の子供のケンカから始まり親同士から村へと争いが広がりついに平王が怒って呉の村を全滅するに至って呉王も立ち上がらざるを得なくなった。

呉王は楚の国に出兵し村の城を落として勝利を収め呉の力を確信する。伍子胥は再び呉王に戦争を進めるも今度は公子光が反対した。

 

これは公子光が次期王を狙うための内部抗争ゆえと考えた伍子胥はしばらく野良仕事をして様子を見ようと考えた。

だが四年後、予測しなかったことが起こる。

楚の平王は死亡したのだ。

これで伍子胥は宿念だった「平王への復讐」を果たせずに終わったのだ。

伍子胥の後悔は激しかった。

岩に額を打ちつけ慟哭した。

「いやまだ楚が残っている。我が息のある限り楚をとり潰さずにはおかぬぞ」

 

横山描写はクールなのでこれくらいだが物凄かったのではないだろうか。

 

この時呉王は動き始める。

楚の喪中に進行を始めたのだ。

伍子胥はそれを見ながら野を耕した。

自分が公子光ならこの機を逃さない。

 

公子光はクーデターを起こし王位を奪う。

新呉王闔廬は伍子胥を仕官に戻し、兵法家の孫子孫武)を将軍とした。

闔廬は国力を増強しながらふたりを重用し楚に攻め入った。

 

楚の知識を持つ伍子胥と兵法に優れた孫子は追撃に追撃を重ね楚の大軍を撃破した。

 

呉軍はついに楚の首都に入る。伍子胥は感無量であった。父と兄を殺されてから十六年の歳月が流れていた。

が、楚王昭はすでに逃亡していた。これでは楚を討ったことにならないと伍子胥は行方を探させたがわからない。

その折、越が呉に侵入したという報が入る。やむなく闔廬は軍を半分して呉に返した。そして半数の兵で行軍することとなったのだ。

 

伍子胥は平王の墓を暴き出しその棺を開け兵に三百回鞭打てと命じる。

「屍に鞭打つ」の語源である。

これを知ったかつての友人が「ひどすぎるではないか」という手紙を送ってきた。

伍子胥はこれに「吾 日暮れて道遠し。故に倒行してこれを逆施するのみ」(わたしも老いていく身だが目的を果たすにはまだまだ道のりは遠い。それゆえ焦って非常識な振る舞いをしたのだ)と返事をしたのであった。

また有名な言葉だ。伍子胥語源すぎる。

 

楚は秦に助けを求め増強し呉に反撃した。

闔廬の弟はこの機に呉に戻り呉王を名乗り出す。

「楚王昭を見つけ出しそなたの恨みを晴らしてやろうと思っていたがこういう事態になっては」という闔廬に伍子胥は感謝し「充分恨みを晴らしました。もはや思い残すことはありませぬ」と言って共に楚から引き揚げ弟軍を打ち破り王位を取り戻した。

弟は楚へと亡命した。

 

しかし伍子胥が十六年間抱き続けた楚に対する復讐心は平王の屍を鞭打つだけで晴れたわけではなかった。

伍子胥は涙を飲み耐えたのである。

 

この後呉と越は宿命的な抗争に突入していく。

 

 

伍子胥の復讐心に惚れ惚れする。

「復讐」という怨念はできるものならはらしたほうが心は平穏になるのだけど物語としては面白くてしょうがないのだ。